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第50話 原田 馨 物語
いけす料理普及のパイオニア
25年の足跡を財産に新たな挑戦
中国国内でも屈指の日本料理文化が根付く〝和食どころ〟の大連。いけす料理、活魚料理は日本のレベルにあり、新鮮な魚介類をいつでも手軽に食べることができる。この食文化を大連に普及させたのが、本格いけす料理店「大連大名」の総帥、原田馨である。中山区安陽街に本店を開店させて今年で18年。今では「大連大名」を3店、日本焼肉店「天一牧場」を2店構え、日本食文化のパイオニアとして業界を常にリードしてきた。
「成功ばかりではなく、随分と失敗も重ねてきた。ビジネスの勝率は50パーセントだろうか。だが、やりたいことはまだ山ほどある」
中国との水産物貿易を手がけて四半世紀を迎えた。大連に足跡を残してきた原田だが、この地に寄せる情熱は衰えることがない。
原田を育んだ瀬戸内の穏やかな海
穏やかな瀬戸内海に面し、豊かな漁業資源に恵まれた岡山県倉敷市。本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が架かり、近代的な都市の姿と美しい自然が調和する東瀬戸経済圏の拠点都市である。世の中が、まだ、のどかで平和な空気に包まれていた戦前、原田はこの地に生まれた。
父は根っからの漁師で、底引き網漁で魚を獲っては黒崎漁港に水揚げしていた。8人兄妹の5番目の三男坊だった原田は、とくに父から可愛がられ、小さいころから父の船に乗って一緒に漁へ出ることも多かった。海が遊び場であり、生活の知恵を授けてくれた〝教室〟でもあった。自宅前の海岸で泳いだり、釣りをしたり、この環境が後の人生を支える基本を作り、育ててくれたのだった。
物心がつき始めた中学生のころから、「三男坊なので跡取りでもない。ならば水産品の商売人になろう」と思い始めていた。勉強はしたくない、我が強いので人から指示されるのはいや、自分で努力して人生を切り拓きたい――原田はこのころから、自分の立場を見極め、人生設計を描いていた。
19歳でその第一歩を踏み始めた。魚の行商をしていた親戚のオジさんに弟子入りしたのである。黒崎漁港の市場で水揚げされたばかりの魚介類を仕入れ、山陽本線の金光駅から岡山駅まで通い、寿司店や日本料理店などに卸す仕事だった。オジさんの後をついて得意先を回って行商を学び、1か月ほどして独立した。
幼いころから魚にふれて、見る目ができていた。新鮮な魚、美味しい魚の選定には自信があった。しかし、はじめの2、3か月は全く売れなかった。仲間の行商たちが、お得意先をがっちりつかみ、若い原田が食い込む好きはない。買ってくれても買いたたかれ、赤字が続いた。売れ残りの魚介類は、泣く泣く帰り道の川に捨てる日が続いたのだった。
半年、1年が経ち、顔なじみの料理店や魚屋ができて、魚を買ってくれるお店も徐々に増えてきた。「余った魚は全部買ってやるから持って来い」。何度も足を運ぶ原田の姿に、魚屋の大将が気に入ってくれ、これをきっかけにして商売は軌道に乗り始めた。経済力がついてきた25歳で、原田は姉のご主人から紹介された淑子と結婚。淑子もまた、漁師町に生まれ、原田の良き理解者となったのである。
魚の行商から貝の養殖、飲食業へ転身
その1年後、原田は新たなステップを上ることになった。「お得意先の料理店は儲かる良い商売」と、行商でコツコツ貯めてきたお金を元手にして、行商をやりながら倉敷市内に寿司店をオープンさせたのだった。大衆寿司店だったが、魚介類の美味しさから評判を呼んで繁盛した。店名は「大名寿司」。店の食器を揃える時、刷り込む店名を考えておらず、とっさに思いついたものだった。いかにも日本料理店らしく、だれでも知っている大きな名前だった。その後の「大連大名」のルーツとなるとは、原田自身も思ってはいなかった。
さらに養殖業にも手をつけ始めた。瀬戸内海や四国の海を借りて、アカ貝を栽培したのである。これが大勝負となった。儲けるときは1000万円単位で利益が上がったが、赤潮の発生でアカ貝が全滅し、一瞬にして儲けがゼロになってしまうこともあった。天国と地獄の世界だった。やがて漁業権を借りるのも困難になり、養殖業から手を引くことになった。だが、すごすごと引き下がる原田ではない。新たなチャレンジへと人生の方向を定めていた。
長年続けた魚介類の行商をやめ、様々な貝を加工する「岡山水産」を設立。全国からアカ貝やトリ貝、ミル貝などの貝類を中心に仕入れ、寿司ネタとして販売したのである。原田、35歳の転機となった。順調な業績が続き、30歳代から40歳代の働き盛りを人生の財産として貯えたのだった。
「きっと日本と同じ魚介類がいるに違いない」と、原田が中国へ目を向けたのが1989年(平成元)。何もツテはなく、原田独特の〝ビジネス臭覚〟である。訪れた大連は、中国きっての水産地だったが、当時は日本との水産貿易がまだ盛んではなかった。日系の進出企業、個人は少なく、現在の活況が想像できないほどのローカルな港町だった。
街並も暗く、沈み込んでいた。ネオンも信号機もなく、まだバラック建物が連なり、日本の戦後を思わせる風景が広がっていた。ホテルと言えばフラマホテル大連ができたばかりで、大連賓館が大連を代表する一流ホテルとして君臨していた。広い道路に走っているのは、わずかなタクシーだけだった。しかし、原田には確信があった。「モノが安い。ここで頑張れば必ず儲かる」。
日本料理店に加え牧場経営、焼肉店も経営
ところが中国ビジネスは強かだった。シャコやアカ貝、イシガキ貝、アナゴなどを買い付け、日本に送っていたが、代金を払ったものの、現物が日本に届かないこともあった。さらには、サンプルは優良品だったが、届いた魚介類は粗悪品だったこともあった。値段交渉も相手は一枚も二枚も上手だった。日本の市場価格をリサーチしていて、値段をふっかけて来る。中国人の商売上手に原田は舌を巻いたものだった。
最初の1年間は大損をしたが、3、4年経ったころ、ようやく商売になってきた。日本と大連を行き来しているうちに、中国の生活にも慣れてきた。しかし、原田は食べるものに苦労した。当時の日本料理専門店は「清水」だけで、新鮮な魚介類を食べることができなかった。そこで原田は、「自分が食べるお店をつくろう」と一念発起。中山区安陽街の中華料理店を買収し、店内改装して「いけす料理 大連大名」を開店させたのである。1996年(平成8)夏のことだった。
そのころの安陽街はスラム街のような雑多な環境で、友人たちは「場所が悪すぎる。客は来ない」と断言したものだった。だが、原田には信念があった。「料理が美味しければ客は必ずつく」。当初は中国人の板前を市場に連れて行き、魚の見分け方を叩き込み、魚のさばき方も原田が自ら教えた。管理面でも、4、5年前から通訳として働き、原田が絶対的な信頼をおいていた許萍を店の責任者に据えるなど、万全の体制で「大連大名」本店のスタートを切ったのだった。
原田の読みはズバリと当たった。「新鮮な魚介類が食べられるお店」として、日本人駐在者らの評判を集め、繁盛した。その1年後に西崗区の森茂ビル北側に2号店、さらに6年後には中山区丹東街に3号店を出店。他の日本料理店でもいけす料理を取り入れ始め、大連の料理として広がって行ったのである。
一方で原田は、「これから経済的に豊かになれば、中国人も牛肉を食べるようになる」と、2001年(平成13)に「吉林市天一岡山和牛養殖公司」を設立、吉林省蛟河市で牧場経営に乗り出した。この「天一牧場」で現在は、肥育牛800頭と漢方用の鹿500頭を育て、上海や北京などで「長白山黒毛牛」として販売。きれいな空気と水に恵まれた自然環境で育った牛は、「柔らかくて美味しい」と高い評価を受けている。
信頼関係のビジネスパートナー
ひとつのビジネスを有機的に結びつけて行くのが、原田の経営手腕の真骨頂だ。自社牧場で育てた牛肉の焼肉専門店「天一牧場」1号店を2008年(平成20)、中山区延安路にオープンさせ、さらに2012年(平成24)に2号店を西崗区同泰街に開店させた。原田は大連で、いけす料理と焼肉料理のパイオニアとして、食文化を築いたのである。
しかし、原田の中国ビジネスは輝かしいサクセスストーリーだけではなかった。飲食店経営の失敗は枚挙にいとまがない。アモイと青島では回転寿し店、大連の開発区では日本料理店、中山広場ではラーメン店、天津街ではたいやき・たこ焼き店、二七広場は焼肉店、庄河では日本料理店……閉店に追い込まれた店である。「店管理の目が届かないと失敗する」。これが失敗から得た教訓である。
商売で騙され、裏切られたこともあった。だが、失意に埋もれることなく、原田は何度も這い上がってきた。そこには大連に寄せる強烈な愛着が、心のバネになっているのだ。「1年の半分を大連で過ごし、外国とは思えぬ居心地の良さがある。信頼できるビジネスパートナーにも恵まれた。ここは私の第二の故郷」。そのパートナーとは、全店の管理を任せている許萍だ。
原田の妻、淑子は頻繁に大連を訪れているが、その淑子もまた、許萍に心を開き、家族同様の付き合いをしている。通訳としての出会いから22年。原田は縁を強く感じ、「いずれは大連の店を、娘(里美)と許さんに渡したい」と思っている。しかし、原田はビジネスからの引き時を考えているのではない。
「店の方は軌道に乗っているので、経営を任せても大丈夫。ビジネスの話は数多く持ちかけられ、私自身がやりたいこともあるたくさんある。これから手をつけたいのが日本からのクラゲの輸入。春には九州を回ってクラゲを探す」
原田は第二の故郷で新たなビジネスを開拓しようとしている。
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更新日: 2014-04-09
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