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第44話 林 伸憲 物語

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昭和46年入社のANA同期会
今年春の入園式で記念写真
幼稚園スタッフとの交流会

大連でも続く挑戦の人生

航空マンから教育現場へ転身

 大連日本人学校の事務長兼幼稚園長として、優しい笑顔を浮かべて園児らと接する林伸憲。教育者としての風格さえ漂わせるが、林は全日空(ANA)に40年以上も勤務した根っからの航空業界マンである。だが、〝畑違い〟とは思えぬほど園長が板についている。そこには全日空で培ったパイオニア精神と、サービス業の極致である航空業界の処世術が生かされている。
 「大連は私にとってかけがえのない思い出の地。26年前の東京―大連―北京便の開設準備に携わり、その後は支店長としても勤務した。その大連で第二の人生を送ることができるなんて、人生の大きな喜び。許す限りこの地で暮らしたい」
 二度目となる大連勤務の念願を果たしてちょうど1年。林は縁を感じながら、充実の日々を送っている。

遊び場は自然あふれる古代ロマンの地

 林の生まれ故郷は奈良県天理市。奈良盆地の東南に位置する三輪山の裾野に「山の辺の道」が延び、古寺や古墳が点在する古代ロマンの地である。その中の前方後円墳「黒姫塚」が林の遊び場だった。いまは古墳公園として管理されているが、1952年(昭和27)生まれの林の子どものころは、里山で山菜やキノコを採り、黒姫塚の中で鬼ごっこや野ウサギを追った、自然味あふれる場所だった。
 小学校時代は、ガキ大将で親の奨めでピアノと絵を習ったが、1週間でやめて、里山や黒姫塚で暗くなるまで真っ黒になって駆け回っていた。将来は家業(木材業)を継ぐだろうと、おぼろげながらに思っていた。
 中学校は市立天理南中学校に進み、クラブ活動は柔道部に入った。天理市と言えば、天理大学を頂点に、柔道の強豪地域として全国にも知られている。そんな柔道への憧れがあった。だが、圧倒的に強かったのは天理中学校で、天理南は歯が立たなかった。それでも林に誇らしい思い出がある。キャプテンを務めていた3年生の時に市大会で天理中と対戦。林は大将戦で相手を体落としの1本で負かし、喝采を浴びたのだった。ガキ大将だった林は、リーダーとしての資質をこのころから育んでいた。柔道部キャプテンの一方で生徒会の書記を務め、様々な校内行事の先頭に立ったのである。
 高校は、「家業を継ぐために経理を勉強しよう」と、奈良県立奈良商業高校に進学した。しかし、そんな目標が大きく狂った。入学間もなくして親の会社が、外材や合板に押されて倒産してしまったのである。しかし、林はぶれることなく、真っすぐな高校生活を送った。部活動は陸上部に入り、得意種目の砲丸投げでは県大会で優勝し、3年生では生徒会長も務め、優秀生徒として卒業時には経団連の植村甲五郎会長から感謝状を贈られた。

グアム、大連の国際線開設を手がける

 〝跡継ぎ〟の道を閉ざされた林が選んだ進路は、林が生まれた年に誕生した全日本空輸(全日空)。同期は全国で34人、奈良では林1人だけの狭き門だった。当時は高度経済成長の末期で万博景気にわき、航空業界の需要も右肩上がりを続けていた。林が配属されたのは伊丹空港の大阪空港支店ハンドリング管理部。飛行機が到着して次の空港へ向けて離陸するまで、旅客や貨物・郵便、手荷物、機内清掃、給油などをトータルで監督、管理する仕事である。当時はYS11などの小型機に加え、トライスターやボーイング727など大型、中型ジェット機が導入され、航空業界が活気に包まれた時代だった。
 この部署には6年間在籍したが、林にとって人生の大きな節目となる時間を過ごした。会社の修学支援規定によって関西大学経済学部に入学し、勤務の遅番、早番を利用して仕事と大学を両立させた。その一方で、後に妻となる友子との出会いもあった。友子はスチュワーデスとしてANAに入社したばかりで、組合主催のクリスマスパーティーで知り合い、林の〝人目惚れ〟で交際が始まった。2年後の1977年(昭和52)に結婚、翌年11月に長女祐子が誕生。仕事と私生活で忙しい日々を送りながら、林は大学にも通い続け、1978年(同53)に大学を卒業したのだった。
 ハンドリング管理部から同支店旅客課、業務課を経て、1985年(昭和60)4月、東京に転勤となり、運送本部貨物課に配属された。ここで林はANAの歴史的な業務に携わることになった。それまでANAは国内線が中心だったが、国際線も就航することになり、その初路線となる東京―グアム便の準備から参画したのである。搭乗載管理(航空機の重心位置管理)に関するオペレーションマニアルの作成にあたり、就航予定の1986年(昭和61)3月の3か月前からグアムに飛び、事務所づくりから備品の購入、現地スタッフの教育と体制づくりに追われた。
 安全に正確に飛行機を飛ばすことが使命の航空会社。初めての国際便だけに手本はなく、厳しい勤務となったが、国際線を飛ばすことの喜びに疲れも忘れた。3月3日、林はついにグアム空港で1番機を迎えた。青い翼のトライスターが無事に到着した時、林のクルー6人は涙を流して抱き合った。この経験が評価され、その年の11月に就航した週1便の東京―大連線の開設準備も手がけたのである。
 大連支店事務所は当時、領事館も入っていた南山賓館に決めた。当時の大連空港は国内線専用で、空港ターミナルは小さな建物だった。旅客・貨物・郵便・手荷物用の大型器材はなく、日本から寄贈と言う形でそろえた。中国の航空会社との交渉にも当たり、ビジネス文化の違う国で苦労も多かったが、林にとってやりがいのある仕事だった。それから13年後の1999年(平成11)4月、林は大連支店長として赴任することになるのだが、当時はそれを知る由もなかった。

大連支店長時代に商工会会長も務める

 運送本部貨物課ではもうひとつの画期的な業務を担当した。国内線チェックインシステムのソフト開発である。チェックインを自動化するため、旅客や貨物・郵便、手荷物の重量バランスを最適な航空機の重心位置を決めるシステムであり、いまだに使われている搭乗載管理システム(LCS)である。1990年(平成2)にはANAの貨物部門約600人を統括する貨物本部業務課に課長代理として転属となった。
 翌年には、成田空港の貨物取扱を子会社に委託することになり、ANA出資のエアカーゴ・ターミナルサービスを設立、林は初代総務課長として立ち上げからかかわり合ったのである。国際線の就航や搭乗載管理システム、そして新会社と、林はANAの新しい業務に携わる、パイオニア的存在だった。
 大阪を離れて9年後の1994年(平成6)7月、大阪支店販売部貨物郵便販売課に配属となり、懐かしい関西勤務となった。林にとって初めての営業だった。大手貨物代理店の担当者と貨物スペースの販売などを交渉する業務で、「初めてお客様を相手にする仕事だけに、うれしかった」と林は述懐する。そんな林に中国語研修の命が下り、在籍のまま1998年(平成10)2月から半年間、北京言語大学に語学留学したのである。
 それまで中国語にふれたことは全くなく、ゼロからのスタートだった。ピンインと漢字を書いて、意味と四声も覚えた。授業は朝8時から夕方4時までびっしり続き、放課後や休みの日もひたすら勉強した。半年間にはHSK3級に受かるまでになっていた。中国語研修は大連支店長の伏線だった。留学翌年の1999年(平成11)4月、大連支店長の辞令が下りたのである。
 最初に訪れた13年前とは見違えるほどだった。人民服で自転車に乗っていた市民は、おしゃれな洋服を着て、街には路線バス網が張り巡らされ、市民生活は様変わりしていた。動物園があった場所は電子城や植物・ペットが売られるショッピングゾーンに変わっていた。林は2000年(平成12)から1年間、大連日本商工会の会長を務め、開発区の日系メーカーなどの要望を受けて、増地税の減額などを求めて中国政府側と交渉した。そのころの相手方はいま、市政府の幹部となり、この時の人脈は林にとって大きな財産となっている。
 4年余の大連勤務を経てANAロジスティクサービスに部長として出向となり、輸出入業務全般を手がけた。さらに5年後の2008年(平成20)には同西日本支店長として伊丹の自宅から通勤し、定年を迎える体制を整えていた。だが、定年が目前に迫った2011年(平成23)4月、東京本社に引き戻され、契約の履行管理業務を任命され、2012年(平成24)8月の定年まで第一線で働いたのである。

再び大連で第二の人生をスタート

 林は大連から日本に戻ってからも、毎年1回は大連を訪れては懐かしい人たちと旧交を温めていた。定年半年前に訪れたとき、運命的な話に巡り会うことになった。当時のANA大連支店長で大連日本商工会副理事長を務めていた遠藤孝博と食事をしていた時のことだった。遠藤は大阪支店貨物郵便販売課時代の後輩である。「林さん、大連日本商工会で事務局長を募集していますよ」。定年後の進路としては願ってもない話だった。帰国後、林は早速、応募した。
 その3か月後、商工会から返事のメールが入った。「商工会ではないが、学校事務長でもいいか」。林に迷いはない。「喜んで行かせていただきます」と返事を出した。こうして林は、退職手続きと就労ビザの手続きを同時に進め、定年2か月後に再び大連へ着任したのだ。もちろん家族も賛成だった。妻友子は大連支店長時代にこの地で暮らし、いまも知人がいる。2人の娘も大連は何度も訪れた馴染みの地でもある。
 林は学校事務長に続いて、今年4月には幼稚園長も兼任し、会計のシステム化や業務体制のルールづくりを手がけて来た。管理部門を歩いて来た林にとって、ANA時代と共通する業務だが、教育分野は経験がない。「素人が教育に口を出しても混乱させるだけ」と、副園長制度を導入して、現場の主任を就任させて教育分野を任せることにした。原則や対面にこだわらず、最善の道を選択する、林のバランス感覚が読み取ることができる。
 「ANA時代は忙しい思いをしたが、新しい仕事に取り組みことができ、素晴らしい経験をした。退職後も大好きな大連で働くことができている。つくづく恵まれた人生だと思う」。林は満足感に浸りながら、大連でも教育分野という新たな分野でチャレンジしている。

この投稿は 2013年10月15日 火曜日 5:12 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2013-10-15
更新日: 2013-10-16
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