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大連地震監視センター専門員 大連地震災害防御研究センター副理事長 趙 安生さん

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東日本大震災は大連でもキャッチされていた。日本で地震学を学び、地震関連の企業でも働いていた。しかも大学も会社も被災地となった仙台市。研究者と被災地へ寄せる思いでこの大地震と向き合った趙さんに聞いた。

観測計を振り切った大震災 懐かしい仙台は被災地に 大連は過去の記録で安全

趙 安生さん

趙 安生さん

 東日本大震災は大連でもキャッチされていた。大連地震監視センターの観測計は揺れの波長を振り切っていたのだ。そのモニターを見ていたのが趙安生さんだった。日本で地震学を学び、地震関連の企業でも働いていた。しかも大学も会社も被災地となった仙台市。研究者と被災地へ寄せる思いでこの大地震と向き合った趙さんに聞いた。

――3月11日には未曾有の大災害をもたらしたマグニチュード9の東日本大震災が発生しました。新聞報道ですと、大連でも高層ビルでは揺れを感じたと書かれていました。当日はいかがだったのでしょうか。

 「あの時、私は労働公園の上にある大連市地震局の地震監視センターで地震観測モニターを見ていました。やがて心電図のようなメーターの波長が大きく、長く動き、ついには限界を振り切り、計測不能となって計測波は真っすぐ横に動くだけで壊れてしまいました。体で揺れは感じませんでしたが、観測計は地震をしっかりと感知していたのです。こんなことは初めてです」

――震源地から2000キロ以上も離れた大連でも計測したほどの大地震だったということですね。

 「発生直後はどこが震源地か分からず、『近いところで大地震が起きた』とセンター内に緊張が走りました。2、3分後に北京の国家地震局から日本で大地震が発生したとの緊急連絡が入りました。その後、中央電視台の速報ニュースで報道された画面を見て驚きました。宮城県をはじめ東北地方や関東地方が大打撃を受け、海岸沿いの地域は津波にも襲われ、濁流とともに車や家屋が流されているではないですか。あの映像はショックでした」

――趙さんは仙台とのかかわりが強いのでことさら心配だったでしょう。

 「そうです。東北大学の博士課程で地震と火山を研究しました。卒業後は仙台の土木地質会社に勤務し、地震が起きるたびに被災地に駆けつけ、主に崖崩れや落石現場のメカニズムを調査していました。この調査結果を基に日本政府や宮城県が斜面、のり面の防災対策に役立てていたのです。大連に戻ってからは宮城県大連事務所に3年間勤務するなど、宮城県、仙台市とは切っても切れない縁があります」

――宮城県には知人も多いことでしょう。さぞかし心配だったでしょうね。

 「ええ、日本の友人は数多くいますので、すぐに連絡を取りました。なかなかつながりませんでしたが、やがてメールなどで連絡がとれ、みんな無事だったことが分かり、ホッとしました。しかし、激しい揺れでテレビなどが落ちて来たりして、凄かったらしいです」

――地震の発生メカニズムについては大陸プレートと太平洋プレートの境界で発生した逆断層型地震と言われていますね。

 「研究者によると、今回の地震では太平洋プレートが31メートルも動いたそうです。この巨大地震の影響が中国にないのは、日本列島が障壁となっているからと言われています。東日本はこのエネルギーと津波による影響をまともに受けてしまいました」

――大連は地震が少ないのですが、安全なのでしょうか。

 「地震研究にとって重要なのは過去の大地震の発生データです。その歴史をみると大連では金州を震源地とするM5の地震が1856年に起きています。この金州から北にかけて金州断層が走っているのです。記録によりますと家屋が倒壊し、犠牲者もいたようですが、当時の家屋は強度が低かったことが被害を大きくしたと思われます。現在ならばM5レベルならばほとんど被害はないでしょう」

――最大でもM5と言うことは過去のデータ上では大きな被害は考えられないということでしょうか。

 「現実的にはM2、3程度の地震は起きていますが、大きな地震はないでしょう。また、大連は海に囲まれた半島にあるので、津波を心配される方も多いと思います。しかし、津波の発生条件は、①海の中でM6以上の地震②水深が60メートル以上③プレート周辺――の3点です。大連にはこの条件を満たす要素はありません。だからといって油断は禁物ですが…」

――では最後に大連の震災対策に対するご意見をお聞かせください。

 「大連市の建築物耐震基準はレベル12のうちのレベル7で、M4程度に相当します。この基準を厳守し、特に学校や病院などの公共施設は耐震性の高い建物にしなければなりません。私は日本の大学で学んだ知識と土木地質会社で修得した技術、身につけた日本人のやり方をこの大連で生かしたいと思っています」

【経歴】
趙 安生さん
 瀋陽出身。1990年に長春地質学院大学を卒業。中国地質科学院瀋陽地質鉱産研究所勤務を経て、1995年に日本に留学。東北大学大学院卒業、理学博士。仙台市で土木地質会社に6年間勤務して中国に帰国、宮城県大連事務所の副所長を3年間勤めた。その後、大連市地震局技術顧問などを経て、現職の大連地震監視センター専門員や大連地震災害防御研究センター副理事長、大連永嘉防震減災慈善基金会秘書長などを務めている。
【インタビューを終えて】
知人への近況報告に
 日本での生活が長かっただけに日本語は達者で、インタビューは完璧な日本語でキャッチボール。通訳の出番はまったくなかったほどだ。当然、趙さんの日本人の友人や知人も多く、日本の文化への理解も深い。東日本大震災後、マスコミの取材は増えたが、日本のメディアとしては「Whenever DALIAN」が初めてだった。取材を歓迎してくれたのも、そんな背景があった。私と共通する知人も多く、「宮城県大連事務所時代は地震とは関係のない産業振興に関する業務でしたが、たくさんの方々と出会うことができました」と懐かしそう表情を浮かべた。このインタビューが趙さんの知人たちへの近況報告代わりにもなってくれればうれしい。

この投稿は 2011年4月28日 木曜日 6:02 PM に Whenever誌面コンテンツ, 巻頭インタビュー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-04-28
更新日: 2011-10-10
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