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第16話 南 真人 物語

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ブレない〝会社経営の請負人〟
あと20年間は中国で現役生活

ブレない〝会社経営の請負人〟

中国で現役生活を続ける南真人

あと20年間は中国で現役生活

 還暦の60歳を過ぎたばかりの南真人。改めて人生の軌跡を振り返る。「思い返せば長く中国と付き合ってきたものだ。中学校時代に読んだパールバックの長編小説『大地』で中国人の生き方に感動して以来、この不思議な国に興味を抱き続けてきた」。
 大学時代は台湾を旅行し、卒業後は台湾へ留学もしたし、中国と貿易していた日本の企業でも働いた。後半は幾つかの中国企業の幹部として経営に携わり、いまも大連の中国系企業で陣頭指揮を振るっている。中国にかかわってすでに40年。これからもこの国で生きて行こうと考えている。南の中国に対する思いにブレはない。

肉体と精神力を鍛えたボーイスカウト

 南が生まれた1950年(昭和25)は、戦後の混乱期から高度経済成長へ向かうプロローグだった。朝鮮戦争が勃発し、軍需の高まりによって景気は徐々に上向き、誰もが貧困のどん底から這い上がろうとしていた。
 南の故郷は大阪市生野区。だが、5歳の時に府下の河内長野市に引っ越し、生野区で過ごした記憶はない。思い出されるのは、高野山の麓に果実園や田んぼが広がる河内長野市の平和な田園風景である。
 家族は役人の父、昌義と母、美代子、そして弟、義徳の4人。父は口数が少なかったが、ただ一点について口うるさく諭された。「火遊びはするな。役人の家から火事を出してはならん!」。以来、南はマッチをすることもできず、ガスの火もつけられない。「いまも料理ができないのは、父の教育の影響だ」。トラウマなのか、逃げ口上なのか、南は笑顔を浮かべながらこう語る。
 小学生時代はいつも学級委員に選ばれた。クラスの投票で選出するのだが、1、2学期は成績の上位者、3学期は人気者が選ばれる傾向にあった。南は3学期の学級委員の常連だった。恥ずかしがり屋だが、明るい性格だけに友人が多く、みんなを繋ぎ合わせる接着剤的な存在でもあった。中学校では〝帰宅部〟だったが、地域のボーイスカウトに入り、週末はキャンプ生活に明け暮れた。「男の子が引っ込み思案ではダメ。鍛えて強い心と体を」。祖母の勧めだった。
 確かに南は高校3年まで続けたボーイスカウトで、耐える肉体と精神力を身につけた。キャンプ中は軍隊さながらのしごきや体罰、夜間非常呼集で金剛山縦走、ずぶ濡れになりながらの雨の日のハイキング、野宿、かまどづくり。もっともトラウマの「火」は扱うことができず、火起こしや料理はやらずに、かまどづくりに徹した。いずれにしろ、サバイバル生活を通して生きることの厳しさと知恵を知り、この経験が後の財産となったのである
 高校は富田林の府立河南高校に進み、身長178センチの長身を生かしてバレーボール部に入部。2年前の東京オリンピックで「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子が回転レシーブを武器に優勝し、バレーボール人気が高まっていた。しかし、体育系だけに先輩の体罰は容赦なかった。「上級生になったら今度はオレたちが」と思ってはいたものの、いざ3年生になっても後輩に鉄拳を振るうことはできない。それは南の本質的な優しさだった。

目指すは台湾から中国大陸へ

 高度経済成長期の真っただ中の1968年(昭和43)、大阪経済大学経済学部に入学。しかし、学園紛争の嵐が吹き荒れ、入って間もなく大学は封鎖されてしまった。1年間はサパークラブでの夜のアルバイトに明け暮れ、大学が再開された2年目から授業に出て、1年遅れの大学生活が始まった。2年後の1970年(昭和45)に人生の方向を決める出会いがあった。その年の3月から9月まで開催かれた大阪万博である。
 南は台湾館の土産品売り場でアルバイトをし、台湾の女性5人と同じ職場で働いた。日本人とは違う考え方、ものの感じ方が新鮮に感じられ、「中国語を話してみたい」との欲望にかられた。以来、NHK教育テレビの中国語講座で「白毛女」のイントロを聞いて勉強し、ラジオの短波では北京放送を受信して「東方紅」耳を傾けた。
 翌年の3月、初めての海外旅行として台湾を一人旅で回った。いきなり生ガキを食べて食中毒になり、3日間の下痢でガリガリに痩せたものの、台湾人の優しさにふれて「働くならば中国と関係のある仕事を」と心に決めた。新学期が始まり、南は第二外国語で選択したドイツ語より、単位のない中国語を熱心に受講したのである。
 卒業後に就職したのは大阪市港区の倉庫会社。念願の中国とは関係のない業務であり、「いずれ台湾に語学留学したい」と腰掛けの気持ちだったが、台湾から来た船長や乗組員にたどたどしい中国語で京都案内もした。2年後の1974年(昭和49)3月に退社し、その年の9月、台湾へ留学し、台湾大学法学院の本科生として入学した。だが、日本の商社などから派遣された企業留学生たちと比較にならないほどの貧乏生活。学費を含めて半年10万円で暮らし、朝食は屋台で油条と豆乳ですませ、交通費も節約してひたすら歩いた。台湾の人でさえ同情するほどの生活だったが、ボーイスカウト時代の体験が南を支えた。そんな留学生生活も母の病気で「帰ってこい」と2年間で終わった。その後、南の人生は中国本土へと向かって行ったのである。
 帰国後は香港と取引のあった尼崎の包装会社に就職、さらに2年後はゴルフ道具の商社に転職して12、3年在籍した。1984年(昭和59)にゴルフクラブの原料となるパーシモン(柿)やカエデ材を求め、吉林省へ買い付けに行ったり、グリップを製造できるゴム工場を探しに河北や北京、天津方面を回ったりした。25年以上前の当時の北京は、車があふれている現在とはまったく異なり、市民は人民服姿で交通手段といえば自転車の牧歌的な雰囲気が漂っていた。

ストライキの原因となった月給250元

 出張ベースで中国を訪れていた南は、やがて「中国で働きたい」との気持ちが強くなり、その商社が広東省東莞の材料工場を開設したため、工場長として赴任。1989(平成元)のことだった。工場の改善を押し進めようとする南、それに反発する従業員。怒鳴り散らす南に対して従業員たちはストライキで対抗した。その後、幾度となくストライキに直面した南だが、不思議とうまく乗り切ってきた。それには中国人スタッフと向き合う南流の哲学がある。
 「逃げずに正面からぶつかり合うこと。そしてこちらの言いたいことを言い、相手の主張にも耳を傾ける。曖昧な手法は通用しないし、余計に事態を悪化させるだけ。胸襟を開けば互いの理解は深まり、信頼関係を築くこともできる」
 3年後に日本のゴルフキャディーバッグから入社の誘いがあり、帰国してキャディーバッグのセールスや中国、韓国での製造を担当した。しかし、心に満たされるものがない。「やはり中国で暮らしたい」との思いは募るばかりだった。4年間勤務した後の1996年(平成8)、大連の眼鏡製造会社で募集していた工場長に応募して採用された。こうして二度目の中国暮らしが始まった。
 工場は大連市郊外の普蘭店にあった。日本人はほとんどいないし、日本人が必要とする生活用品や食材はまったくない。中国の生活スタイルに合わせるしか、生きて行く術はない。南と一緒に日本から赴任してきた技術担当者は、そんな環境に順応できずに入院、間もなく退社して帰国した。根っから明るい性格の南は中国人社会に溶け込み、中国人の友人もたくさんできた。しかし、ここでも従業員のストライキに直面した。
 ストの原因がちょっと変わっている。2000年(平成12)に地元政府が最低賃金(月給)を240元に改正したことに伴い、南は従業員に対し、日系企業に勤務するプライドと労働意欲を高めてもらうため、10元プラスして基本給250元を提示。「満足してくれることだろう」との思いは裏切られ、「南は我々をバカにしている」とストライキ。「250」という数字そのものが火種となったのである。
 昔の貨幣単位で銀貨10両を「一錠」とし、500両を「一封」、その半分の250両を「半封」と呼んだ。この「半封」が阿呆を意味する「半瘋」の発音に近かったから、時が経って「250」がバカな者、阿呆の形容詞になった、といわれている。これには百戦錬磨の南も苦笑するばかりである。結局、さらに10元を上乗せして260元でストライキは収束したのだった。
 この眼鏡製造会社は2003年(平成15)までの6年間勤めて退社。中国文化や習慣を理解し、経営の能力と経験も備えた南には大連の企業から経営依頼が相次ぎ、その後も食品会社、貿易会社を切り盛りし、昨年秋には大連保税区の金型会社「大連鴻芸精密模具有限公司」の董事長に就任した。〝会社経営の請負人〟――この冠こそ、南の勲章と言えるのかも知れない。

妻の激励で「80歳まで中国で頑張る!」

 自分の目指す人生を歩んできた南だが、それを支えてきたのが3歳下の妻、薫である。南を上回る豪快さを持ち合わせ、南をして「両親より家内に育ててもらった時間の方が長く、指導、教育されたことは数多い」と言わしめる。この2人の出会いは何と55年ほど遡るのである。
 南と薫の実家は100メートル離れたところにあった。南が薫に好意を寄せるようになったのは、台湾留学から帰国した1976年(昭和51)。薫の母親が経営する喫茶店で一時、アルバイトをしたことがあり、コーヒーを入れたり、皿洗いをしたりしていた。その度に薫は「コーヒーの入れ方が悪い」「もっときれいに洗いなさい」と、幼馴染みの気やすさから命令調の文句が投げかけられる。が、南はその気っぷの良さが心地良く感じられ、プロポーズして結婚にこぎつけた。南が27歳の時だった。
 2人の子どもにも恵まれ、長男は31歳、次男は29歳と立派な大人になった。子育てから開放された薫は2、3か月に一度は大連に来て、南と一緒に居酒屋で飲み、クラブのカラオケで歌い、勝利広場で買い物をする。元気はつらつとした薫は中国人社会に溶け込み、南に劣らず顔見知りが多い。
 「80歳まで働きなさい!」。薫はこう言って南を激励し、中国暮らしを後押しする。あと20年間頑張り、「人生の半分を中国で暮らし、50パーセントの中国人になる」という目標もできた。還暦でひと区切りつける余裕は南にない。〝会社経営の請負人〟の現役生活はまだまだ続く。

この投稿は 2011年2月28日 月曜日 2:38 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-02-28
更新日: 2012-06-06
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