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第35話 寺嶋 奈美子 物語
大連で踏み出した自分探しの旅
カルチャーを通し出会いの場を
夫と中学3年の長男は東京、高校3年の長女は上海、自らは大連で生活する寺嶋奈美子。家族4人が中国と日本の3か所で暮らすが、「子育ては終わった。子どもが自立するためには、親がいない方が返って良いケースだってある」。その言葉に迷いや曇りはない。東京の下町で育った江戸っ子の歯切れの良さを感じさせる。
「これからの人生は、自分の存在価値を見つけたい。自分の心の落としどころを探したい」。ビジネス日本語の講師とともに、カルチャー研究会の主宰者として活動しながら、寺嶋は〝自分探し〟に踏み出した。
「新人類」を育んだ下町の風土
新人類−―団塊の世代と団塊ジュニアの中間に位置する1960年(昭和35)から1965年(同40)ごろまでに生まれた世代をこう呼ぶ。「自分勝手」「無感覚・無感動」のマイナスイメージと、「物怖じしない」「くよくよしない」といったプラスのイメージを併せ持つ。まさに寺嶋はそんな新人類として誕生した。
下町の築地産院で生まれた寺嶋は、生後間もない時に神奈川県の江ノ島で1年ほど育ったが、15歳までは墨田区の両国、その後も同区の太平で暮らした根っからの江戸っ子である。近所は職人の家庭が多く、荒っぽくも人情味にあふれ、相撲取りが浴衣姿で歩き、路地からは三味線の音が聞こえてきた。
周りの環境と言えば灰色のコンクリートに覆われ、公園と言っても猫の額ほど。無機質な都会のたたずまいだったが、子どもたちはたくましく遊び場を見つけ出していた。積み重ねられたフォークリフトの運搬用木箱に上ったり、隅田川の堤防によじ上ったりして遊んだ。女の子はゴム跳びが流行っていたが、運動が苦手だった寺嶋は、いつも端でゴムの持ち役だった。
父、田中俊一は紳士服の卸業を営み、中国で製造した製品をアイビーファッションの「VAN」や「三峰」に卸していた。女の子であっても田中家の長女であった寺嶋は、父に厳しく育てられた。小学生の低学年のころだったろうか、「別にーっ」と投げやりな言葉が世間で使われるようになっていた。こたつに入っていた寺嶋は、何かの会話で「別にーっ」と答えた。その直後、水が頭からどっと降ってきた。俊一が怒ってバケツの水をかけたのだった。これに猛烈とやり返したのが母、英子。「だれが水を拭くの!」。英子は典型的な気の強い下町の女房だった。
寺嶋は墨田区立両国小学校の4年生から週末は進学塾、小学5年生からは毎日、学習塾にも通った。英子の教育方針だったが、不思議と嫌ではなかったし、普通のことと受け止めた。それより、「運動も苦手な私が何とか人並みに人生を送れるようになったのは母のおかげ」と感謝する。だが、中学受験では私立の名門である東洋英和と四谷雙葉に失敗し、都立両国中学校に進学。同級生には甘いマスクで人気を集めた元関脇・寺尾(本名・福薗好文)がいた。「ひょろひょろと痩せていて、言葉少なくおとなしい性格だった」。
アルバイトに明け暮れた大学時代
課外部活動はブラスバンド部に所属して、小学生のころに習っていたピアノとは違う楽器をと、鉄琴のベルリラを担当。勉強は小学生の時から受験勉強をしてきたこともあって、同学年約350人のうち常にベスト5に入っていた。高校は進学校の都立小松川高校に入学。さすがに優秀な同級生が多くて上位に入ることはなかったが、大学は「運が良かった」からと、国立千葉大学教育学部に合格した。
大学に入って父、俊一の〝縛り〟から解き放たれた。それまでは夜6時に家族全員がそろって食卓を囲むのが暗黙のルールだった。ドアツードア1時間の自宅通学。授業は真面目に受けたが、それ以外はアルバイトに明け暮れた。はとバスのバスガイドとして東京都内の観光スポット案内をはじめ、家庭教師やウエイトレス、エキストラ……。社会の扉が目の前に大きく開いたのである。
しかし、大学4年の夏、俊一が胃がんを患って他界した。寺嶋は教育実習が始まり、就職活動もしなければならないし、卒論の締め切りも迫っていた。その上、俊一の後継者として「社長をやれ」と言う話も持ち上がってきた。会社を閉めると連鎖倒産の恐れがあったからだ。悲しむ余裕はなかった。社長就任の話は母、英子が防波堤となって拒んだ。「経営難の会社を娘に継がせることはできない」。自宅も英子が守った。
結局、寺嶋は転勤のある教員を諦め、OA機器専門商社にプログラマーとして入社した。1985年(昭和60)のことだった。この会社が同族会社であることを知らず、社長の前で「私は将来、この会社の社長になります」と宣言してしまった。社内で笑い話になったのは当然のことだった。
当時、寺嶋は大学の軽音楽サークルで一緒だった2歳年上の寺嶋祐司と付き合っていた。祐司は大手電機メーカーに勤め、1989年(平成元)に台北への転勤が決まった。これを機に2人は結婚、寺嶋は退職して台北で新婚生活をスタートさせた。しかし、寺嶋は友人もなく、やることもない。そこで中国語を学び始めたのだが、3校かけ持ちの語学漬けの毎日だった。
4年後の1993年(平成5)秋、祐司は北京へ転勤となり、寺嶋は北京言語学院に転校。当時11級が最高レベルだった中国検定の10級レベルに到達するなど語学力に磨きをかけた。一方では〝駐在員の妻〟の世界も経験した。奥さんたちの遊びと言えばトランプのブリッジ。賭けはしなかったものの、勝負へのものすごい執念、恐ろしさを味わったのである。
ターミナルケアで看取った母の最期
北京転勤から1年後、妊娠していることがわかったが、逆子だったため、病院の医師は「安全のために日本で出産した方が良い」と勧めた。しかし、転院して北京で出産することにこだわった。そこに寺嶋らしさがうかがえる。「出産は自然の摂理で子どもは授かり物。産めたらラッキーと思い、奇跡に賭けた」。逆子は直り、長女忍を無事に出産、寺嶋は新しい命を引き寄せたのだった。
祐司は1996年(平成8)に今度は東京へ転勤となり、一家は寺嶋の母、英子が暮らす墨田区の実家に入ることになった。翌年12月に寺嶋は長男、雅を出産したが、英子は60歳健診で肺がんが発見され、加えて祐司は香港へ転勤。寺嶋は幾つもの重荷を抱え込んでしまった。
「自宅で最期を迎えたい」という英子の願いで、子育てをしながら家でターミナルケアをして、酸素ボンベの管理や錠剤のモルヒネ投与などの終末期看病に当たった。しかし、沈み込む寺嶋ではなかった。毎週2回はカルチャーセンターでフラメンコを習い、古物商の許可証を取得してアンティークのネット販売にも着手した。儲からなかったが充実した日々でもあった。しかし、病床の英子はこう嘆いた。「随分と雑な看病だね」。その英子は65歳を目前にした2002年(平成14)、永眠した。
長女、忍は中高一貫校の九段中等教育学校に合格したが、2008年(平成20)4月、祐司が勤務する香港に移り、一家4人が合流しての生活が始まった。忍と雅は地元の日本人学校の中学部と小学部に転校し、さらにこの年の11月に大連勤務となって一家は大連へ転居してきたのである。2010年(平成22)4月、忍は上海にある復旦大学付属中学の国際部中文部に入学して寮生活を始めた。さらに祐司は翌年1月に東京へ転勤になり、寺嶋はそのまま大連に残ることにした。雅は「お父さんと日本に帰る」と言って祐司と墨田区の自宅へ戻って行った。
家族4人が3か所に分かれて暮らし始めたが、人生観を揺らがす出来事が起きた。2011年3月11日の東日本大震災。寺嶋はたまたま帰国していて、翌日の12日に大連へ戻ることになっていた。しかし、今までに経験したことのない大地の怒りにふれ、壊滅的な打撃を受けた街を目の当たりにした。行き場のない喪失感にも陥った。悶々とした気持ちの中で、予定外の1年を日本で過ごすことになってしまった。
子育てからコミュニケーション育てへ
「お母さん、いなくなるから」。雅にこう宣言して再び大連に戻ってきたのが2012年(平成24)6月だった。ここにも寺嶋らしい行き方が見えて取れる。
「娘は学校で辛い目にも遭ってきた。しかし、自力で乗り越えて来た。息子も自立させたい。精神的、学力的にも難しいと言われる中学2年生の転校も何とか乗り切り、ようやく『ありがとう』の言葉が言えるようになった。私の子育ては終わった。これからは子育てにかかわってこなかった主人の役目だし、男の子には父親が必要」
祐司は「こんな親はいない」と嘆くが、寺嶋は2歳年上の祐司を〝旧人類〟と言って一線を画す。「主人は理工系の人間。私は村上春樹の作品を読んで心が揺れ、泣くことのできる人間」。
教員資格を持つ寺嶋は、大連のコールセンターなどに勤務する中国人たちにビジネス日本語を指導している。その一方で西崗区中山路の森茂ビル北側にある鞍鋼大厦19階に大連カルチャー研究会を開設した。ここは「教えたい」「学びたい」と言う人たちの出会いの場であり、カルチャーをツールとして人同士を結びつけたい、という寺嶋の強い思いが込められている。開設以来、フラワーアレンジメントや中国結び、切り絵、布絵などの講座を開設してきたが金儲けは度外視して、負担は材料費だけで受講料は無料だ。
「私は台北や北京で多くの女性たちに助けられてきた。今度は私が海外生活を不安に思っているみなさんを勇気づけ、励ますことができたら……。この研究会を舞台にした国際的な人のコミュニケーションを広げたい」
出会いをプロデュースする寺嶋。それは自分の可能性、行き先を求める人生の新たな旅の始まりでもある。
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更新日: 2013-01-08
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