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第29話 阿片 康弘 物語
父たちの〝大陸への夢〟を紡いで
退職後から歩む自分の人生
奈良県庁職員として38年間の公務員生活を送った阿片康弘。水道や消防防災、下水道部門などを歩み続け、大きなプロジェクトにも携わってきた。が、定年退職して組織から解放されたいま、阿片らしい溌剌とした人生を送る。
中国の若い人たちに日本語や日本文化を教え、大連奈良県人会も立ち上げた。大連理工大学アジア太平洋研究センター内に設けられた「奈良研究会」も全面的にバックアップする。「奈良と大連、日本と中国の交流促進を」。明治期に中国へ渡った父の叔父、その影響を受けて上海で派遣教員を務めた父。阿片には〝中国DNA〟が組み込まれている。
■温もりとともに蘇る懐かしい情景
奈良県北東部の山間地にたたずむ宇陀郡曽爾村。ここが阿片の生まれ故郷である。かつては伊勢本街道の宿場町として栄えたが、過疎化が激しく村民は激減、いまは2000人を切った。小学校は村に1校、児童は約60人。阿片が生まれた1947年(昭和22)当時は3校あり、児童数は1校で100人を超えていた。
父万平は奈良師範学校卒の教員、14歳下の母敏子も大阪府立女子師範学校卒の教員だった。万平は1943年(昭和18)に中国の派遣教師に応募して、新妻の敏子とともに上海へ赴任。万平が大陸へ希望を抱いたのは、万平の叔父中島真雄の存在が大きかった。中島は日清戦争勃発前に中国へ渡り、瀋陽で中国語新聞の発行事業を手がけていた。万平は中島から中国での武勇伝、大陸の夢を聞かされ、胸をときめかせていたのだろう。
上海で姉康子が生まれたが、敗戦の翌年に帰国して一家3人で同県室生村(現在の曽爾村)に移り住んだ。その翌年に阿片、その4年後に妹美和が生まれた。公職追放で教員ができなくなった万平は魚屋と農業で一家を支えたが、田舎生活に飽き足らず、まだ幼い美和を連れて奈良市へ出て商社とサロンを経営するビジネスを立ち上げた。曽爾村に残ったのは敏子と康子、阿片の3人。敏子は音楽教員に復職し、阿片が通う小学校の隣の中学校で教えていた。甘えん坊の阿片は出勤する敏子の後をついて歩き、「一緒に行く!」と言っては敏子を困らせたことが何度もあった。
母親っ子の阿片。今でも懐かしい情景が、ほのかな体温とともに蘇ってくる。敏子が日曜日の日直で学校へ出勤するとき、阿片は一緒について行った。敏子がピアノに向かって練習している間、阿片は図書館で本を読み、ピアノの音がやんだら音楽室へと駆け込み、敏子のぬくもりに包まれた。そんな母子の深い愛情は、敏子が89歳で逝った昨年2月まで続いたのである。
地元の小、中学校から高校は進学校の奈良市立一条高校へ入学。優秀だった姉康子が卒業した高校でもあり、阿片にとって必然的な選択でもあった。この年、敏子も奈良市内の小学校へ転勤となり、父万平のもとで一家5人の暮しが始まった。その万平は明治生まれの厳格な性格。阿片は一度も打ち解けて話し合った記憶はない。「父は外向きの公的な人間。経済的にも大変だったが、それを支えていたのが母だった」と阿片は振り返る。
■教員か、公務員か贅沢な進路選択
高校で阿片は2度も停学になった。1度目はマラソン大会でコースから離れてパンを食べ、それが見つかった。2度目は3年の試験の時だった。受験科目に関係のないテストだったので、本を開いて読んでいた。それがカンニングと見られたのか、怠慢と見られたのか、校長に呼ばれて5日間の停学処分をくらった。
大学は理工系を選び、近畿大学理工学部電気工学科に入った。万平は「中国語を勉強して外交官になれ」と、学長と知り合いだった天理大学へ勝手に入学願書を提出。しかし、阿片はそれを振り切って自分の意志を貫いた。不思議と万平は反対しなかった。
大学では基幹産業である電気供給を学び、ひょんなことから詩吟部に入って活動もした。当時、日本教育新聞奈良支局長をしていた万平を手伝って購読料の集金もした。だが、将来の進路については漠然としたものしかなかった。大学院へと進むことも考えたが、万平とは40歳離れていただけに「これ以上、両親に負担をかけさせたくない」との気持ちが強かった。「とりあえずは」と普通は2年から受ける教職課程を4年になってからとり、1年間で単位を取得した。
就職試験は奈良県庁と奈良県教員採用の両方にパス。両親のように教員となるか、それとも公僕となるか――就職氷河期の現在では夢のような話である。阿片の選択は県庁職員だった。その理由が阿片らしい。教員としての配属は奈良市内から離れた高校で寮に入らなければならないが、県庁ならば近い。県議会議員選挙に立候補したこともあり、公的な意識の強かった万平も「県民のために役立つ仕事」と賛同した。
入庁したのは1970年(昭和45)4月、技術職員として水道局に配属された。当時の奈良県は平野部が慢性的な水不足に陥り、上流部からの送水設備や浄水施設を急ピッチで整備。入庁間もない阿片も電気技術者として浄水施設の設計、施工に携わった。やりがいもあるがジレンマも感じるようになった。もっと人脈を広げたい、もっといろいろなことをしてみたい。上司に相談し、5年後に消防防災課へと配属替えとなった。
消防防災課では保安行政と火薬取り扱いの許認可を担当。ここでも「もっとダイナミックな仕事がしたい」との気持ちがあった。そんな時に知人の紹介で4歳下の寿子と出会って結婚、経済成長が著しかった1981年(昭和56)5月のことだった。その2か月後に阿片は営繕課に移り、係長として手腕を発揮した。
■定年退職10年前から中国語を学ぶ
当時、建設の契約は一括発注が常識で、大手企業に有利な仕組みになっていた。公務員としての正義感の強い阿片は下請けにも配慮した分離発注を導入したが、反発も大きかった。だが、公会堂や学校、病院などの建設工事を一部分離発注でやり抜いた。充実していたが、やはり公務員生活に吹っ切れない思いを持ち続けていた。「県庁を辞めようか」との考えもよぎったが、当時の知事とも親しかった父を裏切ることはできない。「定年退職した60歳からが自分の人生。父や父の叔父が夢を描いた中国へ」と心に決めた。万平が没した1989年(平成元)、阿片が42歳の時だった。
その後、医科大学管財課を経て1998年(平成10)に課長補佐として営繕課に戻り、この時から定年後を見据えて中国語の勉強をはじめたのである。阿片は晴れて定年退職した2008年(平成20)まで下水道事務所工務課長、浄化センター所長を歴任したが、退職後の準備にも怠りはなかった。休暇を利用して西安に訪れ、中国で何ができるかをリサーチした。奈良県内企業の依頼を受けて、大連と上海で大学生の採用試験や大学との交流をコーディネートしたこともあった。
阿片の結論は、中国ビジネスは無理、まさっているのは日本語、「ならば当面は日本語教師として頑張ろう」。退職後1年間は日本語教師の資格を取るため専門学校に通った。大連の大学から日本語教師として採用したい、とのオファーもあった。そんな時、大連で開かれた食事会でDTPなど日本向けオフショア業務を展開する大連海和伝媒有限公司総経理の馮筠淞と出会った。「従業員に日本語とマナーを教えて欲しい」。こうして阿片は2010年(平成22)1月、敏子や寿子、長女万奈美を奈良市に残して大連に移り住み、同社顧問として従業員教育に携わることになった。父の叔父と父が歩んだ〝大陸への道〟を明治、昭和、そして平成へとつなぎ、「父たちの仲間入りをしたい」との念願を果たしたのである。
■奈良県人会を立ち上げ、奈良研究会も支援
中国への熱い思いとともに奈良への愛郷心も人一倍強い阿片。奈良は中国と1300年の交流の歴史があるが、中国人の多くは奈良を知らない。「どこにあるの」と残念な返事が返ってくる。元奈良県庁職員として情けない、そして寂しさも感じる。「何とか奈良を盛り上げ、大連生活を質の高いものにしたい」と昨年10月、大連奈良県人会を発足させた。会員は現在34人。〝奈良の輪〟はまだまだ広がって行きそうな気配だ。
この県人会がきっかけで、大連理工大学から「大学内のアジア太平洋研究センターに、奈良県の歴史や文化を学生に学ばせる『奈良研究会』を発足させたいので協力してほしい」との話が持ちかけられた。阿片には願ってもないことである。中国の大学生に奈良を深く理解してもらい、将来の奈良と大連、日本と中国を結ぶ人材を育てることができる。阿片は今年2月、奈良市で開かれた全国奈良県人会で、知事の荒井正吾や県議、県内町村長を前にこうスピーチした。「奈良を理解してもらう絶好のチャンス。奈良に関すると書類など資料の提供、研究会での講師の派遣など県民1人1人に協力していただきたい」。今年6月、その願いが成就した。奈良研究会が発足し、資料も寄せられ、荒井から祝辞も届いた。
着実に夢をたぐり寄せてきた阿片。その先に新たな道筋が見えてきた。過疎化に悩む生まれ故郷の地域おこしである。曽爾村も何とかしたい、との思いがふつふつとわき上がる。阿片が歩んできた後ろには、踏み後がはっきりと残されている。いつか故郷にもその足跡が残されることだろう。
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更新日: 2012-07-11
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