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第24話 高木 勝 物語
やっと巡り会った伴侶と終の住処
傷みを伴う過去とも向き合って
日本語教師として中国人青年の指導に情熱を注ぐ高木勝。IT企業の日本語専任講師を務める傍ら、自宅を開放してボランティアでネイティブな日本語を教え続ける。「やる気いっぱいの若者たちの力になってやりたい」。人生の後半に入った高木は、大連でともに手を携える伴侶に恵まれ、生き甲斐も見いだした。
しかし、高木が大連で穏やかな居場所を見つけるまでの道のりは、決して順風満帆とは言えない。高度成長期を企業戦士として生き、バブルの恩恵を享受したが、その代償も決して小さくはなかった。高木はいま、傷みを伴った過去と向き合おうとしている。
■通信士として世界を巡る夢を目指して
濃尾平野の木曽川左岸沿いに位置する愛知県扶桑町が高木の生まれ故郷である。終戦前年の1944年(昭和19)4月に男ばかり4人兄弟の3番目として出生した。扇状地の肥沃な土地に恵まれた扶桑町は、その通り古くから養蚕業の盛んな地域だった。今でこそ名古屋圏として都市化が進んでいるが、当時は田園風景が広がり、木曽川をプール代わりに遊んでいた時代である。
父義夫は名古屋市内の小学校教諭、母ふみゑも結婚するまでは小学校教諭だった。高木はやんちゃな三男坊だったが、両親に怒られた記憶はない。勉強嫌いだったが、「勉強しなさい」と諭されたこともない。あくまでも自由主義で、両親は子どもたちの意思を尊重した。高木は後に大きな事故に遭遇し、父の愛情の深さを改めて知ることになる。
勉強嫌いとは言っても高木は小学生のころから優良児童であり、いつもクラス委員を務めていた。6年生の時には学校代表となり、町内3小学校の児童代表とともに交流会に参加した。中学校に進んでも勉強は嫌いだったが、数学の授業で先生が教える三角形定義の間違いを指摘するほど学習への理解は深かった。高校受験も懸命に勉強することはなかったが、地元の名門校である愛知県立犬山高校に進学したのである。
高校に入ってからは俄然と猛勉強に励んだ。とは言っても学校の勉強ではなく、アマチュア無線の資格取得のための勉強だった。ラジオの組み立てなどを楽しむ電子クラブに入部した高木はアマチュア無線の魅力にとりつかれ、現役高校生としては資格取得第一号の輝かしい足跡を残している。
「アマチュア無線には国境がなく、外国人と話ができる。実用的な英会話の勉強にもなるし、枠にとらわれることが嫌いだった私に向いていると思った。将来は通信士として大型船に乗り、世界を駆け巡りたい、という将来の夢が大きく広がった」。高木は懐かしそうにこう語る。
こうして選んだ進学先は名古屋電気通信工学院だった。目指す専門的な通信士の世界はアマチュア無線の比ではなかった。出力ワット数がケタ違いに大きく、いつでも世界中と交信できるし、モールス信号による通信や天気図の作成など専門的な学習も世界へ踏み出すステップとして新鮮に感じることが出来た。しかし、大学2年生の夏、その夢を砕く大事故に遭遇したのである。
■九死に一生を得たタンカー爆発事故
高木は在学中の1965年(昭和40)夏、実習で四日市港から大型タンカー「海蔵丸」(20,949トン)に乗り込んだ。順調な航海が続いたが、ペルシャ湾のラス・アルカフジで原油積み込み中に爆発事故が発生、船は沈没して乗組員43人のうち10人が死亡するという大惨事となった。高木も爆風を受けて全身に大やけどを負い、クウェートの病院に運ばれ手当を受けた。その模様はロンドン発ロイター電の記事として日本の新聞にも掲載され、地元の中日新聞は社会面準トップで報じた。
真っ黒に焼けただれた高木は生死をさまよい、20歳の命が異国の地で散ろうとしていた。日本の家族のもとには「タカギマサル キトク」の電報が届き、両親は地元の有力国会議員に「一刻も早く現地に駆けつけたい」と頼み込んだ。だが、当時は日本とクウェ―トに国交がなく、交通手段はない。家族は途切れ途切れの少ない情報に気をもむしか術はなかった。
高木が40日の入院で退院することができたのは、よほど運と生命力が強かったのだろう。11人目の犠牲者となったとしても不思議はないほどの大やけどだった。帰路は飛行機を乗り継いで羽田に着いたのは事故から2か月の時間が流れていた。空港には待ちわびていた両親と長兄の3人が出迎え、感動の再会を果たした。高木はまだ皮膚が黒く焼けただれ、包帯姿も痛々しかった。この時の模様も奇跡の生還として日本全国に報じられたのである。
事故から帰国までの電報や新聞記事、手紙、写真、関係者の名刺などを1冊のアルバムにはり付けた記録集が高木の手元に残されている。タイトルは「愚息 高木勝 遭難アルバム」。父義夫がその思いを記録としてまとめたものである。台紙は黄ばんでところどころが破けて来ているが、父の愛情の証でもあり、体温が伝わる親子の絆でもある。高木は40数年後のいまも、この1冊を大切に持ち続けている。
通信士を諦めた高木は卒業後、先輩の紹介で古河電池(本社・横浜市)に入社し、中部支店でバッテリー販売の営業を担当。当初は顧客が安定して比較的地味な特約店回りだったが、40歳を過ぎたころに接待営業が不可欠なビル管理会社の担当に変わった。折しもバブル経済の絶頂期。交際費は湯水のように使い、派手な営業に明け暮れた。放蕩生活は家庭にもひび割れを生じさせていた。
■放蕩生活で崩れ行く家庭生活
高木は29歳の時、高校時代の恩師のパーティーで知り合った6歳下の後輩と結婚して一人娘に恵まれたが、娘が小学生のころ、家庭は完全に崩壊していた。冷えきった夫婦生活、居場所のない家庭。そんな高木はひとりの台湾女性と知り合い、男児を設けたのである。その男児は今年、成人式を迎えるが、15年前に内縁関係は破局し、わが子の記憶は5歳のままで止まっている。
バブル経済のまっただ中に生き、その恩恵も受けた高木は47歳の時、「枠に入った人生は面白くない」と会社を飛び出して友人ら3人とビル管理会社を立ち上げ、社長として陣頭指揮にあたった。高度成長の勢いで当初は順調だったが、バブル経済の崩壊とともに経営状態は悪化。還暦を迎えた年には売り上げが半分以下に落ち込み、廃業に追い込まれてしまった。私生活もうわべだけの夫婦生活を清算して正式に離婚したのである。まさに人生を一巡りして、新たな人生の扉が開こうとしていた。
中国ビジネスを長年続けている同年代の友人と還暦祝いで訪れた中国。スケールの大きさと悠久の歴史に圧倒された高木は、この地に言われのない魅力を感じ、足下が震えるほどの興奮を覚えたのだった。友人のビジネスに付き合って何度も中国各地を訪れ、とりわけ大連に惹き付けられた。日本に似た気候、食べ物、そして穏やかな気質。「この地で暮らすのも良いかな」と思い始めていた。そんな時、土産を買うため通っていた中国茶店の店主から「素晴らしい女性がいるけど会ってみないか」と勧められた。「それならば」と軽い気持ちで見合いした相手が妻の于艶。2006年(平成18)のことだった。
■20歳を迎える息子との再会を願って
于艶は19歳年下で離婚歴があり、一人息子(現在は大学3年生)がいた。言葉はほとんど通じないが、心は通じた。高木は于艶に清楚な印象を受け、何よりも別れ際に握手した時のやや荒れた指に〝働き手〟を感じ、離婚してから10年にわたり、女一人で子どもを育てて来た苦労がしのばれた。交際1年後の2007年(平成19)年11月、2人はめでたくゴールイン。が、間もなく高木は大腸がんを患って半年の療養生活を送るハメになってしまった。
高木は年金生活で働かなくても経済的に困ることはない。しかし、無力感に襲われ、働いて社会とつながりを持つことも人生の糧になることを改めて痛感したのである。行動が素早い高木は、求職者を対象とした就職フェア会場を訪れ、日本人を求める安博教育(大連)軟件與服務外包人材実訓基地の日本語教学部非常勤講師として採用されたのだった。
安博だけでなく自宅でも日本語習得を目指す中国人青年に日本語を教える高木には、ひとつの流儀がある。それは相手の心を開かせることである。時にはだじゃれで和ませ、時には辛口でズバリと突っ込んでムキにさせる。これも相手の心に入り込む長い営業経験、社会経験の成せる技とも言える。
もうひとつ高木には〝顔〟がある。サークル「抹茶割りと俳句の会」の会長として20人近くのメンバーを率いる。焼酎の抹茶割りを飲みながら、俳句や川柳、短歌、詩吟を披露し合う楽しい趣味の会。酒が入ってのだじゃれあり、アカデミックな要素もあり、老いも若きも一句ひねって盛り上がる。高木の親爺ギャグもその場の雰囲気に欠かせない要素になっている。
大連で穏やかで温かな日々を過ごす高木だが、ひとつの想いが心の滓(おり)となって深く沈み込んでいる。それは5歳の時に別れた息子のことである。今年は20歳になり、「一緒に酒を飲みたい」という気持ちが募るばかり。消息はわかっている。拒絶されるかもしれないが、誕生日を迎える5月には連絡を取りたいと思う。
そんな高木の過去を于艶はすべて承知している。隠し事はいっさいない。時には親身になって相談相手にもなってくれる。高木は初めて居心地の良い家庭、妻の愛情を知った思いがする。「日本に帰る場所はない。この大連が私の居場所であり、妻に骨を拾ってもらう」。高木は終の住処を見つけたのである。
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更新日: 2012-06-06
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