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日本料理「西村」創業者 西村 弘美さん

美味しさと安全性の追求を
財産となった「金田中」修業時代
苦労を乗り越えた妻との二人三脚

 寿司をはじめとする日本料理は空前の世界ブーム。その先駆者の1人といえるのが日本料理「西村」創業者の西村弘美さんだろう。香港をはじめ、北京や深圳、大連などでも出店し、本格的な日本料理店として高い評価を集めている。機会の少ない大連訪問の日程にあわせ、パイオニアとしての苦労や今後の日本料理についてインタビューした。

――世界的な日本食ブームの中で、中国でも日本料理の普及は目覚ましいものがあります。西村さんはそのパイオニアでもあり、大連でも実績を上げられています。まずは今回の大連訪問についてお聞かせください。

 「大連のお店には1年に1回ほど来ているでしょうか。今回は12月4日に開かれた大連日本商工会の忘年会で寿司を握るために来ました。ここに住む日本人のみなさんに本格的な美味しい寿司を食べていただきたいと思ったためです。私自身もとても楽しみにしていました。また、シャングリ・ラホテルの『西村』で1月3日から7日まで開催する寿司のプロモーションの準備も兼ねていました」

――西村さんは1985年に香港リーガルホテルに日本料理「西村」をオープンさせて以来、中国各地で店舗展開されています。大連店のオープンは1998年でしたが、当時はまだ日本料理が普及していなかったと思います。なぜ大連に進出されたのでしょうか。

 「中国国内の各地にあるシャングリ・ラホテルに出店していますが、大連は大連シャングリ・ラの創業者が女房の知り合いだったこともあり、出店することになりました。いまは大連市内に数多くの寿司店がありますが、当時は本格的な寿司を食べさせるお店はありませんでした」

――いま、大連の日本食ブームをご覧になって、どのような印象を持たれていますか 。

 「大連はここ数年で寿司店など本格的な日本料理店が目に見えて増えてきました。これは、食材の安全性や出所がはっきりしているから、お客さんの信頼を得ているのだと思います。しかし、どのお店も味が同じで特徴に欠けるのが残念ですね。これからは業界内の競争も激しさを増すと思いますが、どの客層をターゲットにするのか、特徴を出すことが不可欠です。これが生き残れるかどうかのカギになるでしょう」

――ところで西村さんはどうして料理の道に進まれたのでしょうか。

 「私は九州の宮崎生まれで、子どものころ、母親が小さなレストランを出していました。このレストランが結構、繁盛していて、昼時は行列ができていたほどでした。そこで働く母親を見て育ちましたので、母の姿と料理の味が私の原点になったと思います。その後は大学に進みましたが、2年生の時に中退して浅草のある料理店に入り、板前の修業をはじめた訳です」

――西村さんと言えば老舗料亭「金田中」を思い浮かべます。浅草のお店の後に移られたのでしょうか。

 「ええ、そうなんです。ある方の勧めで銀座の『金田中』に移りましたが、ここで素晴らしい先輩、後輩と出会い、技術、知識の面でも得るものが大きかったですね。例えば、アナゴを使って三種類の料理を作れと言われ、それまでの経験を生かして新メニューを考え出すのです。こうした修業は大きな財産となり、食材を自由に使うことを学びました」

――中国へと軸足を移されたのは、どのような展開があったのでしょうか。

 「『金田中』が香港店を出すという話が1976年に持ち上がりました。はじめは別の人が赴任することになっていましたが、急に行けなくなり、当時、離婚したばかりの私に回って来たのです。気分一新するためにもこの話を受け、香港に来た訳です」

――当時は日中国交回復からわずか4年しか経っていません。ご苦労も大変だったのでしょうね。

 「特に苦労したのが寿司です。当時はボロボロの上海米しかなくて、握ってもシャリがまとまらない。そこでへらを横にして粘り気を出したり、酢と砂糖の分量を研究したり、苦労しましたね。また、当時の中国人は冷たい料理を口にしないので、温かい寿司を作り、ネタも現地のものを使いました」

――その後、独立されて現在の地位を築かれた訳ですね。

「念願だった自分の店を香港に出したのは1985年でした。30席の小さな店で従業員は3、4人。香港で結婚した女房と二人三脚でがむしゃらにやってきました。いまでは各地に支店を出していますが、振り返るとあのころが最も大変でしたが、一番充実していました」

――これまで苦労されてきた経験を踏まえ、海外における日本料理の展望についてのご意見をお聞かせてください。

「日本料理で最も重要なのは、やはり安全性の問題でしょう。価格面だけを追求すると、安全性が脅かされてしまいます。海外の日本食ブームにはその危うさが潜んでいます。美味しさとともに、しっかりした仕入れ先や味の変わらぬ除菌方法の工夫などが日本料理の信頼につながると思っています。こうした日本流の努力は必ず世界に受け入れられることと確信しています」

【Profile】
西村 弘美さん
 1945年、宮崎県生まれ。大学中退して料理人の道へと進み、銀座「金田中」での修業を経て、1976年に「金田中」香港店へ赴任。1985年に香港リーガルホテルに日本料理「西村」を開店させ、その後は中国主要都市で店舗展開し、中国における日本料理の開拓者として活躍する。

【取材を終えて】
理想を追い求める眼の輝き

 西村さんの大連滞在が5日間と聞き、早速インタビューをお願いしました。快諾していただいた西村さんは気さくな人柄で、これまでのご苦労を笑顔で話してくださいました。いまでは中国国内外で8店舗を出店され、監修しているお店も数多く、育て上げたお弟子さんは中国各地で活躍されています。「中国の人に日本食を美味しく食べてもらいたい」と伝統を守りながらも創作料理を手がけて来た西村さんの意地に尊敬の念を禁じ得ません。理想を追い続ける少年のような眼の輝きが印象に残りました。
猪瀬 和恵

この投稿は 2012年2月15日 水曜日 7:38 PM に Whenever誌面コンテンツ, 巻頭インタビュー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2012-02-15
更新日: 2012-04-10
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