観光・遊び・買い物

旧ロシア街(ロシア風情街)

勝利橋から旧ロシア街へ

多くの想像復興建築の中にキラリと光る建物も残る近代大連の誕生の地「旧ロシア街」

大連市西崗区団結街

 大連駅の北側に位置する旧ロシア街は帝政ロシア時代の行政区跡地で多くのロシア人が住んだことから呼ばれる場所です。まさに近代大連発祥の地です。大連政府は歴史、文化を守るため、2000年9月に古い建物を保存し、新たな建物を復元したロシア風情街へ改修、総工費は1.8億元。現在、大連で最も有名な観光地のひとつとなっています。

 戦前は日本橋と呼ばれた勝利橋を渡るとすぐ目前に洋館が目に飛び込んできます。現在も長距離バスなどがガンガン通る交通の要所であるためこの勝利橋も2005年ごろに補強、改修されて屋根の部分が撤去されました。

 ※訂正、上記写真は旧日本橋ではなく近年併設して架けられた橋です。旧日本橋はこの橋の右側に架かっている橋でロシア街方面へ車が通行している橋が旧日本橋です。横から見ると皇居二重橋、東京日本橋を思わせる装飾豊かな造りになっていることがよく分かります。

旧ロシア街入り口

ロシア風情街入り口

 入り口です。観光用のバスなどがたくさん停まっています。”街”とつくだけあって一本道の通りにお土産物屋さんや想像復興したロシア風の建物が並んでいます。夜間はライトアップされてきれいですが閑散としています。

 実はこのロシア風情街で元々の建築物は数えるほどしかなく多くが想像復興となってり、ロシアの人も観光客のみというのが現実です。観光情報はガイドブックなどを参考いただくとして、Whenever大連ローカルではローカルならではの情報を紹介させていただこうと思います。

旧児玉街の絵葉書
出典サイト 大連の街~Ⅱ

 戦前は児玉街と呼ばれていた現ロシア風情街の上記に近い位置からのアングルです。奥に現在と同じように初代大連市役所の建物を見ることができます。道幅は同じはずですが広く感じられます。

大連芸術展示館(旧東清輪船公司)l

大連芸術展示館(旧東清鉄道汽船会社)

 数少ない外観保存されている建築物である大連芸術展示館は、元々1900年にロシアの東清鉄道汽船会社が社屋として建築されたものです。しかし、戦後、取り壊されています。現在の復元された建物は、取り壊し前に北九州市門司港に作られたレプリカを参考に忠実に復元されたものです。北九州のレプリカは、姉妹都市である北九州との友好都市締結15周年を記念して1994年にと建築されたものです。

お土産屋、商店
 道の両端にこのようなお店が並んでいます。ロシアの有名な人形であるマトリョースカやロシア風の帽子や手袋(!?)が売られています(でもよくみると中国製)。お店の人にロシアの人と思われる人はいません。

 大連出身の知人によると10年ほど前までロシア人と思われる人をロシア街で見かけることができたそうです。当時はロシア料理レストラン、バーなどがあったらしくその従業員(!?)なのでしょうか。

ロシア街から中山広場方面
 ロシア風情街から中山広場方面の様子。世界貿易ビルが見えます。明らかに観光目的で想像復興された建物です。当然ながら鉄筋コンクリート製です。安全、防災上の観点から仕方なかったと思うのですがちょっと寂しい建物群だったりします。

現存する歴史的価値が高い建築物

初代大連市役所

初代大連市役所→満鉄本社→大和ホテル

 1900年ごろに帝政ロシアによって建築されたこの建物が実はロシア街で最も歴史的な価値があると思われるのですが現在は残念なほど朽ち果てています。

 ロシア風情街の一番奥に位置し、建物の前には噴水がロータリーとなっており往時を忍ばせてくれます。当初はこの付近を建築したロシアの会社である東清鉄道事務所が1902年に初代の大連市役所となり、日本統治後の1907年に東京から移転した満鉄の本社となる。満鉄の本社が1908年に現在の魯迅路に移転後は二代目大和ホテルのとなります。明治を代表する文豪夏目漱石もその時代に宿泊しています。

 その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館となり終戦を迎えます。

 戦後は大連市自然博物館と改称し活躍し、1998年に黒石礁、大連海洋大学の近くの現自然博物館へ移転後は使用されておりません。2000年のロシア風情街の大整備の際に改修工事を受け現在へ至ります。

満州資源館時の古写真
出典サイト みに・ミーの部屋(満州写真館)

満州資源館時代の古写真

 大和ホテルから資料館へ役割を変えて終戦を迎えた時代のものです。見比べてみると建物の前の噴水はないように思われます。建物の外観はほぼ同じようです。非常に威風堂々としていてシンプルな造りです。さらによく見ると右後ろの煙突の形状と左側に写りこんでいる電線が当時とほぼ同じように感じられます。

右横から見た初代大連市役所
 正面右側です。壁の塗装の痛みが激しいようです。内部も覗いてみたのですが荒れ放題でところどころガラスも割れていて吹きさらし状態です。

かなり崩されている建物左側
 左側です。建物の破壊が進められているようです。保存して欲しいと切に願います。

崩されている初代大連市役所
 重機で壊されているような壊れ方です。建物を観察するとレンガ造りで床は鉄骨で補強されているようです。

 今後、この建物はどうなるでしょうかと心配になります。大連で最も古くロシア、日本、中国と3国の歴史に大きな関わりを持つ歴史的に重要な建物だと思います。しっかりと保存して後世へ伝える貴重な遺産となって欲しいものです。

市長邸宅/満鉄総裁宅

帝政ロシア時代の市長邸宅→満鉄総裁の邸宅

 初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として1900年ごろに建てられ、サハロフが市長を兼ねると市長公邸となります。満鉄設立後は、満鉄総裁公邸を経て、大和ホテルの新築前は賓客の接待にも使われています。

 現在は1階はバー(?)、2階は船舶学校の事務所として使用されているようです。ロシア風情街入り口からだと左手にあります。

金帆酒店(ホテル)
 金帆ホテルとして現存する建物です。当時の名称、役割は何だったのでしょうか(調査中)。

 他にも数棟現存する建築物がこの周辺にあります。補足として帝政ロシアの行政区ですが、設計担当はドイツ人だったためこれらの建物はロシア風というよりヨーロッパ風(ドイツ風やルネサンス調)なんだそうです。

ここが本当のロシア街!?

ロシア街旧住宅街1
 ロシア街の左側へ一本入った路地。そこにロシア時代の東清鉄道汽船会社の関係者や行政関係者の住居がほぼ原型のまま残されています。
ロシア街旧住宅街2

 現在は地方からの出稼ぎ労働者などの安宿になっているようですが、ドイツ人が設計したとされるドイツ風ハーフティンバー様式やルネッサンス様式の邸宅が目を引きます。窓の形や入り口が2階にある邸宅などもあり、他の大連の建築物とは一線を画する印象です。

ロシア街旧住宅街3l
 行き方は、ロシア風情街の真ん中付近から左へ行く路地から行くか、一番奥の建物の方からも行くことができます。しかし、夜間は薄暗く、治安も悪いと思われるのでお勧めはできません。

 これぞ本当のロシア街と言われるところなのですが、2011年から整備事業が進められています。保存して観光地となるのでしょうか。

 資料を紐解くと、終戦直後、居住していた日本人が移住や帰国した空き家を当時の暫定政府が、抽選で住宅を提供したそうです。そのまま、整備される2010年頃まで至ったことですが、混乱期の影響もあったのでしょうか、その多くが、不法滞在や家賃未払いのスラム状態だったそうです。今回の再整備で大連市内最古の建物群がキラリとした歴史的な価値を取りも出す日も近いかもしれません。

旧日本橋(現勝利橋)

日本橋正面右側から
 1907年(明治40)に架けられた旧日本橋はロシア街を正面に見て右側です。美しいアーチ状の構造をしていることが分かります。分かりづらい場所ですが、銀行の敷地内からの撮影です。ここからの眺めは隠れたお勧めスポットです。

橋脚の装飾
 ロシア街側、左側からみた旧日本橋の装飾です。残念ほど痛んでいますが、とても美しく、荘厳な感じの装飾です。やはりバロック、ルネサンス調のヨーロッパ的な堂々とした造りです。

ロシア街側左側より日本橋
 ロシア街から中山広場方面を眺めています。

戦前の日本橋(絵葉書)
出典サイト 大連の街から~Ⅱ 戦前の絵葉書『大連日本橋の景 』より。

 実は上記とちょうど真反対からの様子なのですが、橋の造りや装飾が左右対称のように感じられます。現在、この絵葉書の風景は新しく掛けられた勝利橋があるため見ることができません。

戦前の日本橋(絵葉書2)
 戦前の絵葉書より。

 現在の長江路から日本橋を描いた絵葉書です。路面電車が走っているのが日本橋で現在の上海路、交差して左右へ伸びているのが長江路で右へ進むと現在のホテル・ニッコー大連側となります。

一言コメント

アクセス / 地図

<バス>403 勝利橋。<電車>201 勝利橋。

 大連駅(南口・繁華街側)から徒歩約15分。大連駅の北口から旧大連駅(初代)を右手に通り過ぎて同じく約15分くらいで到着します。大連賓館(旧ヤマトホテル)がある中山広場から途中左手に大連ホテル(旧遼東ホテル)を見ながら直進約800メートル10分くらいです。

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この投稿は 2008年3月16日 日曜日 8:34 PM に 観光・遊び・買い物, 観光 カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック2件

  1. スカイライン34 より:

    門司に先ず正確なレプリカが造られました。完成後本物が取り壊されてレプリカをもとに再建されたのが現在の建物です。資材はレプリカのと同じものが使われたと思われます。本物を修復するよりレプリカのレプリカを造った方が安上がりだったのでしょう.日本時代に取り壊されたことはありません。

  2. 慶次郎 より:

    スカイライン34さん、
     ご指摘有り難うございます。調査して、更新させていただきます。何か参考文献、資料等をご存知であればご教授いただけないでしょうか。

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掲載日: 2008-03-16
更新日: 2012-07-26
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