二〇三高地
旅順総攻撃の激戦地203高地。万の日露将校が静かに眠る
大連市旅順口区二〇三高地
竣工 1905年(明治38) 完成 1912年(明治45)
施工 不詳
入場料 30元 開門時間 不定期 駐車場10元
旅順の新市街から北西約2キロにある二〇三(203)高地は(以下二〇三高地)現在、中腹にある駐車場から7、8分も坂道を登れば頂上へ立つことができる標高203メールの丘です。今では、日本人が最も多く訪れる観光地となっています。
記事中の太字とアンダーラインは『坂の上の雲1~8』 司馬 遼太郎・文藝春秋からの引用です。
そこから旅順港は見えるか。(本文)小説『坂の上の雲』の中で児玉源太郎の有名な言葉です。
1904年(明治37)11月27日から始まった旅順攻撃では「難攻不落」の高地とされていた。先に9月19日この高地がまだ半要塞の状態であったとき、日本第一師団がここを増員して攻撃したなら占領できたであろうがこの高地を放置した。この間ステッセルはあらゆる堡塁の中で最強のものをこの高地に築きあげた(本文)
ステッセルの言葉を借りれば二〇三高地こそ攻防のかなめである(本文)
また、当時従軍していたアメリカ人新聞記者スタンレー・ウォッシュバンの著書『乃木』では 旅順要塞は、難攻不落の要塞として、ジブラルタルをのぞけば、古今に比類なのないものであった(本文) と紹介されています。二〇三高地をめぐる戦いは12月6日まで続きました。
この二〇三高地を象徴する慰霊塔は二〇三を中国語発音で漢字をあてた爾靈山(爾霊山)と刻まれています。漢詩が得意だった乃木希典が名付けています。犠牲となった将兵たちを慰霊するために戦場周辺の弾丸と砲弾の薬莢を集め、1905年(明治38)に鋳造を始め12年に完成しています。ライフル弾を模したものといわれます。
軍事司令 乃木希典、参謀長 伊知地幸介は第3軍を送ったがその大量の生命が「無益」に天に昇った 予備中隊であった香川、村上の両隊は悪鬼のように進んでついに二〇三高地を占領したときに30日午後10時である。(本文)
現在の姿は当時のものと少し異なっています。文化大革命の時代に先端部分が破壊されていて、一部復元されています。また、下側の丸い穴は日の丸をイメージしたと説明するガイドブックなどもありますが、一番上の写真を見て分かる通り四方角4か所に開いていることが分かります。この穴には完成時には4枚の鏡が埋め込まれていました。鏡は中国の風水、四神相応に基づき、玄武、朱雀、青龍、白虎として配置されていました。乃木の中国文化への造詣の深さ、思いを感じることができるエピソードです。正面の長方形のプレートには日露戦争や概略についての説明文がありました。しかし、削り取られており残っておりません。説明のプレートを正面にして爾霊山の文字の左側に複数の穴が縦に残っています。ここには当時、完成時の年と日時を記したプレートが設置されてました。なお、完成時の様子を復元したミニ慰霊塔を記念品として頂上の土産物屋さんで買うことができます。
近づいてよく見ると中国語やロシア語で無数の落書きが刻まれていることが分かります・・・・・・。
ロシア軍にとってこの高地と連繁した要地だった赤坂山の堡塁などは、かつてあれほど日本兵を殺復した強力弾地でありながら、地勢上その力をうしない、6日守備兵は戦わずに退却した(本文)
現在では樹木が生い茂り頂上の一部以外では旅順の市街地をを見ることができない状況です。しかし、両軍の激戦は標高206メートル言われた山を3メール削り、木が1本もない岩肌むき出しのハゲ山へと変貌させてしまうほど激しい戦闘だったと伝えられます。
あの二〇三高地の頂上へさえのぼれば、旅順港がみおろせるはずです(本文)
日露戦争が終わってすでに100年以上にもなるのに、二〇三高地の頂上に立ち旅順港を見渡すと、さほど当時とは変わらない地形を見ることができます。足元を少し掘ると古びた鉄クズが出てきて、大量の弾丸が埋まり、大量の血を吸っていることを思い知らされます。
左上に白玉山塔(旧表忠塔)、右側が旅順口です。手前を横切る高架は延長中の202路線です。
二〇三高地は、当初高崎山などと呼ばれていました。二〇三高地陥落の翌日、二〇三高地と名付けられる決め手となる乃木の漢詩が本文に残されています。
爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山嶮”けん”なれども 豈”あ”に攀”よ”ぢ難からんや)
男子功名期克艱 (男子功名 艱”かん”に 克つを期す)
鐵血覆山山形改 ( 鉄血山を覆ひて山形改まる)
萬人齊仰爾靈山 (万人斉”ひと”しく仰ぐ爾霊山 )(本文)
堡塁の内壕のふかさは2メートル以上であった。横牆”おうしょう”がいくつかあり、また堡塁司分所は強因に掩蔽”えんぺい”されている。さらに高地の東北部にも同様の堡塁があり、6インチ砲をそなえ名鞍部には軽砲砲台があり、それらの堡塁や砲塁のあいだにに暗路が走って交通路になっている(本文)
今は堡塁の周辺には亡くなった方々の霊を慰めるように野菊が咲き誇っています。
二〇三高地を攻略した直後に設置されたのがこの観測所です。ここから旅順口に停泊中のロシア軍艦を観測するなど重要な拠点とされたようです。今でも旅順口を一望できる眺めに最初に設けられた戦略的な重要性を感じさせてくれます。
二十八サンチ榴弾砲をもって二〇三高地の山越えに旅順港内の軍盤を射て(本文) と陸軍大将児玉源太郎が登用した弾砲は日本から運ばれた大砲です。
江戸時代中期以降、ロシアをはじめ列強の艦船が日本近海に出没し、海防と言う危機意識が表れてきます。江戸幕府はじめ諸藩はその領域の海岸線に砲台を造って行きます。明治政府は1877年(明治10)にイタリアからモデルとして2門買い入れ、1893年(明治26)にこの砲はすべて国産化に成功しています。
とくに二十八サンチ砲の威力は偉大でした(本文) のちの水師営でステッセル中将が語る言葉です。
日本陸軍はこれを旅順で用い逐次据えてつけて、その数はついに18門に達した。児玉は後にこの重い砲を6門を分解し奉天の戦場まで引きずって行きます。
ちなみにサンチはフランス語風の発音です。
慰霊塔の北側にロシア軍の150ミリキャノン砲が2門復元展示されています。
写真提供 大連旅順旅遊集団
二〇三高地の坂を下る途中の、本道から少し離れた場所に乃木保典の戦死した場所を示す碑があります。保典は乃木希典の次男であり、この地で生命を落としています。
かれは性来快活機敏な性格で南山で戦死した兄の勝典中尉よりも軍人としては適していた(本文)
日本人ロシア人と多くの若者が将来それぞれの才能とを花開かせただろう生命が戦争と言う人道に背いた中で失ったのは残念な歴史的な史実です。木もれ日の中で立っている碑はどこか寂しそうです。
登山口の駐車場にある珈琲屋の看板がかかっている休憩所です。初めて訪れた2003年の時には土産物屋でした。また、二〇三高地の頂上へ向かう入り口の左側には平屋の展示小屋があります。
この場所から頂上まで送迎サービスがあります。100元/人往復となります。
参考文献
『坂の上の雲1~8』 司馬 遼太郎・文藝春秋
参考サイト
あられの日記
アクセス / 地図
タグ: 旅順
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更新日: 2012-06-03
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