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東鶏冠山北堡塁

東鶏冠山北堡塁

名将コンドラチェンコが壮絶な最期を遂げたロシアの要塞「東鶏冠山」(东鸡冠山景区)

大連市旅順口区鶏冠山路長江路1号
竣工 1898年ごろ 完成 1896年ごろ
施工 不詳
入場料20元

「旅順の英雄」コンドラチェンコ少将の戦死で大きく動く戦局

 旅順要塞の要であり、名将コンドラチェンコが最期を迎えた天然の岩石とコンクリート(小説『坂の上の雲』中ではベトン)で形成された要塞です。ロシア軍最後の抗戦派で、将校の精神的な支柱でもあったコンドラチェンコの戦死を境に戦況は一気に旅順開場へと動いていくことになります。東鶏冠山は鶏のトサカのような山で、ロシアが1898年(明治31)に半永久的な堡塁を8年の歳月とコンクリート20万樽を用いて築いた9,900平方メートルもの大要塞です。

 記事中の太字とアンダーラインは『坂の上の雲1~8』 司馬 遼太郎・文藝春秋からの引用です。

ロシア軍の兵舎内部

ロシア軍の兵舎内部(立入禁止)

ダイナマイトや二十八サンチ榴弾砲にも耐える鉄壁の要塞「東鶏冠山」

 旅順最後の攻防ともいえる4か月に及ぶ激しい戦闘が行われた東鶏冠山は2009年12月に外国人の訪問可能地大幅拡大前から訪れることができた3か所のうちの1か所です。現在は平和公園として解放されているが、岩やコンクリートの壁に残るおびただしい弾痕や爆破の跡が東鶏冠山北堡塁の堅固さと戦争の悲惨さを今に伝えます。

 コンドラチェンコは、ほとんど不眠不休で防戦指揮をした。旅順要塞のつよさはベトンの強さではなく、コンドラチェンコのつよさであるといわれた。(本文)

東鶏冠山の古写真

東鶏冠山の古写真


 このコンドラチェンコが、十二月一五日に戦死するのである。
 かれの死は、日本軍にとっても重要であった。かれのこの戦死の日から旅順の防戦力がめだって落ちてゆくのである。

 このとき日本の二十八サンチ榴弾砲陣地で大きな発射音がとどろき、巨弾が空を飛んでこの窖室の天井を突きぬけ、内部で大爆発したのである。

―あの人が死ねば、これ以上の抗戦はむずかしくなるだろう。
 と、その捕虜は悲しげにくびを振った。コンドラチェンコがよほど士卒の心を得ていたということができるであろう。
(本文)

コンドラチェンコ少将戦死地の碑

コンドラチェンコ少将戦死地の碑


写真提供 大連旅順旅遊集団

 両国から「旅順の英雄」と称されたコンドラチェンコ少将の戦死は事実上、旅順攻防が終結した瞬間となりました。しかし、犠牲となったのは将校だけではなく、多くの旅順の一般市民も犠牲となっています。この歴史的な事実は重く私たちへ突きつけてきます。東鶏冠山は観光地というよりも巨大な陵墓のようにも覚えてきます。戦争の恐ろしさ、狂気、惨たらしさを改めて心へ刻み、そして、後世に伝える場所だと思います。

参考文献
『坂の上の雲1~8』 司馬 遼太郎・文藝春秋
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この投稿は 2011年12月26日 月曜日 6:49 PM に 観光・遊び・買い物, 観光 カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-12-26
更新日: 2012-03-24
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