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第48話 石澤 潔 物語

中国人スタッフの育成に情熱を燃やす石澤潔さん大連錦華銀座酒店のスタッフとともに王麗総経理と二人三脚で北京新世紀ホテル時代の餅つきイベント

ホテル業界40年のスペシャリスト

中国人スタッフに経験と知識を

 ホテル業界に携わって40年。日本のリゾートホテルやシティホテルで、サービスと営業の道を一貫して歩んできた。ホテル業務のスペシャリストである石澤潔。全日空ホテルなどで培った〝おもてなしの心〟を、いまは大連錦華銀座酒店副総経理として中国人スタッフに伝える。
 「中国のホテル業界は、伸びしろのある成長産業。私の経験と知識を大好きな中国のために生かしたい」
 石澤は若い中国人スタッフに、惜しみない情熱を注ぎ続ける。

陸上部の短距離で身につけた忍耐力

 東に蔵王山、西に朝日連峰を望み、五郎岳を水源とする馬見ヶ崎川が澄み切った水を滔々とたたえて流れる。雄大さと繊細な日本の原風景が広がる。ここは石澤が生まれ育った山形市。県都として現在は近代的な地方都市の姿を見せているが、石澤が生まれた1953年(昭和28)当時は、まだ、牧歌的なたたずまいだった。
 父、作一は保線担当の国鉄マン、母、ふくよは専業主婦。石澤は兄1人、姉2人の末っ子として、両親や兄姉、曾祖母の愛情をたっぷり受けて育てられた。道路は未舗装で、石澤は近所の友だちと道路で野球の三角ベース遊んだり、近くの田んぼを走り回ったり、のびのびとした幼少年期を送った。
 小学校は山形市内でも伝統のある市立鈴川小学校に入学。雪深い地方だけに、冬は竹スキーで通い、雪だるまやかまくらを作って遊んだ。どこにでもいる普通の北国っ子だったが、ひとつだけ違っていた。かけっこが滅法速かったのだ。全校でもダントツで、運動会はいつもスターだった。
 中学校は市立第四中学校に進み、芋煮会として知られる馬見ヶ崎川の堤防を1時間近く歩いて通学した。部活動は憧れた野球部に入部したが、1年生の二学期には陸上部に転部。通学路の堤防を毎日4、5キロ走り、グラウンドではダッシュを何本も繰り返すなど、とにかく陸上漬けの中学校生活だった。
 高校は県立高校の受験に失敗、滑り止めとして受けた日大山形高校に入学。1クラス60人近くで、1学年13クラスもあるマンモス校。石澤は陸上部に入部し、高校でもひたすら走り続けた。種目は100メートルなどの短距離走と槍投げ。全力で50、100、400メートルのダッシュを繰り返したが、最も辛かったのが2時間走だった。黙って自己と向き合いながら、グランドを走る。こうした厳しい練習で忍耐力が自然と身に付いて行ったのである。
 「東京に行きたい。そのためにも大学に入る」。思春期を迎えた石澤は、東京への憧れを強烈に抱くようになっていた。第一希望は日本大学芸術学部だったが、寄付金が高い。家庭の経済事情も考えて諦め、高校の担任の勧めもあって、新設された東洋大学ホテル観光学科に入学。下町の雰囲気漂う北区十条の小さなアパートで夢の生活が始まった。共同トイレ、風呂はなく、かぐや姫の「神田川」そのままの暮らしだった。

観光業界への第一歩は「東京に行きたい!」

 東京に行きたい、との願望で選んだホテル観光学科だったが、これが石澤の天職への〝はじめの一歩〟となった。授業は専門的でホテルマシンの手打ち式計算器で伝票を作り、調理実習ではコース料理を1年間学んだ。当時は学生運動がまだ続いて、学内はギスギスした雰囲気に包まれていた。が、石澤は新たな世界に踏み入れ、充実した学生生活を送った。中でも楽しかったのが、夏の実習である。軽井沢の万平ホテルや蓼科のビラ蓼科(当時)で寮生活をしながら、ホテル業務を体験した。万平ホテルではスイーツツアーを企画、都会から「アンノン族」と呼ばれる若い女性たちで賑わい、石澤にとって、同世代の女性とふれ合った青春の思い出のひとコマとなった。
 そのころのホテル観光学科は短期大学だったため、石澤は1973年(昭和48)3月に卒業した。東京で就職したかったが、実習したビラ蓼科から「手伝わないか」との誘いがあった。ビラ蓼科は著名人も利用する高級リゾートホテル。石澤は長野行きを決意した。勤務した2年近くの間、レストランからフロント、ハウスキーパーと、すべての部署で働き、ホテルマンとしての基礎を築いたのである。
 「熱海に来ないか」。経営破綻した熱海のホテル「シャトーテル赤根崎」の管財人となったビラ蓼科前総支配人からの引きで、今度は熱海に移った。蓼科より東京に近いことも魅力だった。22歳の石澤は、フロントと営業を担当し、研修会や社員旅行、団体ツアー、海外からの団体客など、あらゆる客層のオペレーションを身につけた。
 1年後に東京営業所に転勤となったが、熱海勤務時代から大好きな東京に毎週通い、大都会の空気を吸うことが楽しみでもあり、息抜きでもあった。上京するたびに通っていた喫茶店で運命的な出会いがあった。胸をときめかせた相手は、大学図書館司書の晴美さん。ウマが合い、3年余でゴールインしたが、晴美さんへの想いもあり、東京営業所への転勤を希望して受け入れられたのだった。
 東京営業所では各種団体の営業を担当し、熱海の客入りが最高の時期だったことから、団体客を次々と熱海に送客した。東京営業所に7年間勤務したころ、ステップアップの大きなチャンスが到来した。東京全日空ホテルが開業に向けて社員を募集したのである。シティホテルで働いてみたい、との思いもあって応募、それまでの経験が評価され、開業準備室の一員となった。1985年(昭和60)秋、31歳の時だった。

舞台を全日空ホテルに移して飛躍

 開業までの半年間、大看板を背負った意気込みと、新しいホテルを立ち上げる使命感で、寝食を忘れて仕事に没頭した。スタッフはいろいろなホテルから集まった寄り合い所帯。ルールづくりから営業戦略まで、決めごとが多く、合意に達するのに時間と手続きを要した。だが、石澤は全日空の底力を実感した。開業告知のセールスを全国の企業、旅行会社に出張訪問したが、反応はすこぶる良い。「必ず成功する」と、石澤は確信していた。
 1986年(昭和61)7月に念願の開業を迎えたが、石澤には感動の記憶として鮮明に残っている。最初の宿泊客は欧州人。総支配人が花束を贈って歴史の1ページが開かれ、一流ホテルの開業にかかわり合うことの喜びに、鳥肌の立つ思いだった。3年半にわたって宿泊と宴会のセールスを担当し、その後は親会社の全日空エンタープライズに転勤、単体のホテル営業からグループ国内外36ホテルのチェーン販売と、舞台が飛躍的に広がった。
 エンタープライズには6年間在籍し、後半の3年間は名古屋営業所長として名古屋勤務となった。この名古屋で再び転機が訪れたのだ。年1度の人事調査票に次の勤務希望を書き込まなければならない。「絶対にないだろう」と思い、中国勤務を希望した。そのころ、全日空は北京と西安でホテルプロジェクトを立ち上げて、北京では全日空と北京市が新世界飯店を経営していた。この営業部長が病欠で、後任を探していたとき、石澤の人事調査票が、人事部の目にとまり、あれよあれよと言う間に同飯店営業部長の辞令が下りたのだった。石澤、42歳、人生二度目の大きな節目となった。
 北京に赴任したものの、言葉も習慣も分からない。単身赴任で孤独感にも襲われる。日本に帰りたいと、人事調査票に「中国」と書き込んだことを後悔した。しかし、3か月ほどたったころ、オフタイムに1人で外に出られるようになり、おおらかで懐の深い中国の魅力に取り憑かれるようになった。「日本に帰りたくない」。そんな自分の順応性を頼もしくも、おかしくも思う。

念願の中国で若いスタッフの育成に意欲

 北京勤務3年後の1998年(平成10)にリニューアルした沖縄・石垣島の全日空ホテル東京営業所長への転勤命令で帰国。関東地方の営業を統括し、月に1回は石垣島に出張し、中国と共通するのどかな風土が気に入った。だが、中国に帰りたい、との思いは募るばかりだった。そんな時に持ち込まれたのが、「北京に日本人専用の高級倶楽部をオープンさせるので、総支配人としてきてくれないか」。2000年(平成12)のことだった。
 15年間勤めた全日空ホテルとの別れだった。ところが、勇んで北京に行ったものの、倶楽部の消防認可が下りず、計画は白紙となってしまった。梯子をはずされた石澤は途方に暮れたが、半年後にチャンスが巡ってきた。全日空が出資していた北京新世紀ホテルから、全日空が撤退することになり、共同出資の中国側が日本対応できる人材を探していたのだ。石澤に願ってもない話であり、日本市場総監として再就職することが即決した。
 北京新世紀ホテルには8年間働き、日本客担当として政界や経済界などのVIPをサポートし、NHKのど自慢スタッフも受け入れた。そんな中国でのキャリアを見込まれ、桂林の日系ホテルからヘッドハンティングがあり、副総支配人として転職。間もなく総支配人に就任し、地方都市の純粋なスタッフたちとも心を通わせた。だが、日本側が資本を中国側に譲渡したこともあって、石澤は2012年(平成24)秋に退職、とりあえずは住み慣れた北京に戻ったのだった。
 仕事がなければ日本に帰ろう、と思っていた時、知人から大連の日本人専用ホテルで日本人幹部を探している、との話を聞き、大連に飛んだ。大連は北京時代に一度訪れたことがあり、「日本人にとって過ごしやすい都市」との印象を持っていた。人材を募集していたのは、日本人に特化したホテル、マンションの「大連錦華銀座酒店」。王麗総経理と面談して、大連で働くことを決めた。2013年(平成25)3月、石澤のステージは大連に移ったのである。
 ホテル業界に一貫して携わってきた石澤。中国のホテル業界の歴史はまだ浅く、ホテルの生命線であるサービスも客を満足させるレベルにはない。しかし、その反面では発展する余地が、たくさんあると感じ取っている。スペシャリストの集合体であるホテル業。まだまだ石澤の出番は残っている。「中国人スタッフに普遍的なサービスを教えたい」。長年にわたって培ったノウハウが、中国の若いスタッフに注ぎ込まれている。

この投稿は 2014年2月14日 金曜日 12:35 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2014-02-14
更新日: 2014-02-14
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