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第43話 川口 順一 物語
大連で送る充実の第二の人生
夫婦で夢の海外生活と人材育成
システムエンジニアとして高度経済成長期を走り続けてきた川口順一。コンピューターによるバンキングシステムを確立させた第一人者である。その川口はいま、豊富な経験を生かし、中国の若者に日本語とIT知識、ビジネスマナーを教える日本語教師として教壇に立つ。
「中国の若者は素直で能力があるが、社会に対する知識が足りない。そんな若者たちに日本の良さを理解できる力とともに、ITというプラスワンの能力を身につけてもらいたい」
第二の人生を海外で送りたいと思い続けてきた川口。夢の実現は人材の育成という使命が加わった。「日本と中国をつなぐ人材を育てたい」。川口は妻明子とともに、大連で若者たちと真摯に向き合う。
幼年期の虫好きから「将来は昆虫学を」
アメリカ軍の爆撃を受けて壊れたままのビル、焼け野原の跡に無造作に生える雑草、造船所跡に続く引き込み線の線路――川口の幼い記憶に残る故郷の風景だ。東京の下町、北区神谷町。終戦2年後の1948年(昭和23)11月、川口は父周明、母初枝の長男として、ここに生まれた。
周明は日本金属の王子工場に勤務する技術者だった。両親と川口、そして姉明子、妹紀子の一家5人は神谷町にあった会社の寮住まい。川口は草むらでトンボやバッタを追いかけ、近所の仲間たちとチャンバラごっこ、鬼ごっこに興じる、のびのびとした幼年期を送った。
小学校は地元の北区立神谷小学校に入学。戦後間もなく生まれた〝団塊の世代〟だけに、1学年に11クラスもあるマンモス校だった。教員や教室が足りずに、1週間おきに午前と午後の2部制だったが、遊び盛りの子どもたちには願ってもない〝半ドン〟授業である。中学校も地元の北区立神谷中学校に進み、ここも生徒がひしめくマンモス校。川口は活発だった幼年期時代から落ち着いた性格に変わり、クラブは数学部に入って活動した。このころから理系への進路が見え始めてきた。
高校は自由な校風の都立文京高校に入学し、部活動は生物部に所属した。幼いころ、焼け野原の草むらで昆虫を追いかけ、蟻を瓶に入れて巣を観察したり、オケラを飼ったりしたほど、根っから昆虫が好きだった。その虫好きは高校に入って拍車がかかった。台東区谷中の墓地で花さしに残った水の中から、体長わずか0.2ミリほどのゾウリムシを採取して、接合、分裂を観察し、果物店からショウジョウバエを捕まえて遺伝観察をした。「農工大に入学して昆虫学を勉強したい」。将来の夢が大きく広がってきた。
しかし、大学受験はすべて失敗して受験浪人。予備校へ通って再チャレンジしたが、昆虫学への夢は叶わず、合格したのは電気通信大学経営工学部だけだった。それでも経済的な理由から、「今度落ちたら働け」と周明から厳命されていただけに、川口自身の喜びは格別だった。東洋英和女学院を卒業し、戦後は代用教員を務めた母初枝も涙を流して息子の合格を喜んでくれた。
極秘裏に社内交際を重ねた静岡時代
当時、一家は埼玉県蕨市に住んでいたことから、川口は電通大のある東京都調布市まで通学した。大学1年生は真面目に講義を受けたが、2年以降は70年安保の学生運動が激化し、学園紛争で休講も多くなったこともあり、ほとんど授業に出ることはなくなっていた。京王線調布駅を下りてから、大学へは向かわずに麻雀荘に直行、パチンコ店にも通い詰めた。囲碁部にも入って電通大の囲碁全盛時代の一翼も担った。アルバイトにも精を出し、デパートの梱包や配管工として稼ぎ、大学から遠ざかっていた。
そんな川口だけに、単位取得は危うかった。ゼミ担当教官の松山敬左から自宅に電話が入った。「息子さんは授業に出てこない。このままでは卒業させません」。松山は若く面倒見の良い教官で、川口たちを山や映画に連れて行ってくれた。電話は松山の愛情のこもった〝脅し〟だったが、初枝は真に受けて、川口を叱咤した。
留年の危機も乗り越えて卒業は決まったが、就職先が定まらない。数社受けたが落ちてしまい、大学の先輩の奨めで三菱事務機械販売会社(MOM)にシステムエンジニア(SE)として入社した。しかし、コンピューターは大学の選択科目で少しかじっただけで、同期50人との差は歴然だった。川口は大学時代には考えられないほど、必死に勉強して1年後にやっとSEとしてスタートラインに立つことができた。
入社2年目に「1年間で東京本社に帰すから」という口約束で静岡事務所に転勤、大城農協をはじめ、三ヶ日農業、伊豆東農協など、静岡県一円の農協バンキングシステムを担当。ハードからソフトまでのシステムを手がけ、この分野での第一人者として基礎を築いたのである。1年の勤務は結局、10年間になってしまい、川口の人生の中でも決して忘れることのできない時を過ごすことになった。
静岡勤務3年目の時に、姉明子が酔っぱらい運転の車にはねられて29歳の若さで死亡、翌年には母初枝がガンのため52歳で亡くなり、川口を可愛がってくれた2人が相次いでこの世を去った。悲しみのどん底に突き落とされたが、その一方では新たな愛を育んでいた。後に事務所から昇格した静岡支店総務担当の陽子と隠れて交際を続け、「6時にAで」などと二人だけの暗号メモでデートを重ねていた。初枝の喪が明けた1977年(昭和52)2月、2人は結婚し、翌年には長女玲子、さらにその2年後に長男亮が誕生。静岡勤務は川口にとって、仕事と私生活の両面で大きな節目となったのである。
早期退社して海外生活の夢を実現
静岡で培った経験と技術が見込まれ、1982年(昭和57)5月には宇都宮に転勤、栃木県農協電算センターの集中オンライン、バンキングシステム、販購買システムを確立させ、〝農協システムの川口〟を不動のものにした。1987年(昭和62)1月には東京本社の農協チームマネージャーに就任、東京や神奈川、千葉、埼玉などの農協オンラインシステムなどを手がけるとともに、農協関連業務を統括したのだった。
当時のMOMは農協システムでNECと競っていたが、業界の吸収合併、M&Aを繰り返して、MOMは日本ハネウェル、NECコンピューターシステムと社名が変わった。川口は一貫して農協システムを担当してきたが、ついに決断の時がやってきた。5社合併してNECネクサソリューションズが誕生したのを契機に希望退職したのである。川口に未練はなかった。「発展途上国でITの知識と経験を生かしたい」。新たな人生に光を見出していた。しぶる陽子を説得し、JAIC(国際協力事業団)のシニアボランティアに応募した。
シニアボランティアに採用されることに疑いはなかった。ところが結果は不採用。当時、IT関係の希望者が一気に増えたことと、尿検査で潜血反応が出たことが原因だった。3回挑戦したが、いずれも不採用となってしまった。夢は棚上げして、知人の紹介で自動車車検の登録代行会社に勤務した。
「中国に行ってみないか」。そんな話が持ち込まれたのは1年半後のことだった。東京のIT企業がオフショア開発している大連で、品質管理をしてくれないか、と依頼してきた。海外に行けるならばどこでも行く、と思っていた川口。チャンス到来とばかりに大連へやってきた。2006年(平成18)9月、58歳の時だった。
川口は初めて訪れた大連に、懐かしさを感じ取った。高層ビルが建ち並ぶ反面、裏道に回れば草むらが広がり、そこには線路が延びて、幼いころの下町風景と重ね合った。「あのころを彷彿とさせ、これから発展するに違いない。働く場のない日本より、この地でキャリアを生かしたい」。第二の人生に高ぶりを覚えたのである。
職場は大連ハイテクパークにあり、部下は中国人スタッフ10人。日本向けソフトウェアの品質管理とスタッフの教育、そして日本から訪れる客への対応だった。若くて優秀な中国人とふれ合う仕事に、川口は充実感を覚えた。が、それは長くは続かなかった。全世界を揺るがしたリーマンショック。仕事が激減したうえ、2社合併で品質管理の責任者が2人になってしまった。川口は身を引いて、1年半後に日本へ帰国した。だが、送別会で川口はこう挨拶した。「いずれ大連に戻ってきます」。
夫唱婦随で取り組む人材育成
チャンスはわずか4か月後に巡ってきた。中国でも展開する資格取得予備校TAC(本社・東京)の大連法人である泰克現代教育(大連)有限公司の教務部長に就任、2008年(平成20)9月に再び大連の地を踏んだ。開発区の大連理工大学で学生に日本語会話とIT知識を教えた後、現在は大連ソフトウェアパークで日本への就職を希望する日本就職プログラムと、中国の日系企業への就職を希望する中国就職プログラムの講師として、日本語会話やIT知識、ビジネスマナーを指導している。
「大連には日本語教室がたくさんあり、日本語検定1、2級の資格を持っている中国の人も数多い。いまや言葉だけでは就職することが困難。日本語に加えてITなど別の能力を持つ人が求められている。そんな人材を育てるために私の経験を生かしたい」
生徒たちを教える川口の傍らには、陽子の姿がある。助手として川口をフォローし、女性らしい気配りで教室の雰囲気を和らげる。夫唱婦随の授業は生徒たちからも好評で、日本の社会、文化、習慣まで幅広い知識の習得に結びついている。
休日などは、夫婦で市内の路線バスに乗って大連探訪を楽しみ、時には中国国内旅行にも出かける。そして年に2回帰国して、父周明や妹紀子、2人の子どもと孫に会って穏やかな時を過ごす。「優秀な中国の子どもたちを育てて日本に送り、中国の名山に登り、世界遺産巡りもしたい」。日本では得られぬ充実感。川口は人材の育成とともに、大連の暮らしに生き甲斐を感じている。
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更新日: 2013-09-05
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