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第41話 桑山 裕子 物語

大連で新たな一歩を踏み出した桑山裕子さん

ヴァージングループ会長のリチャード・ブランソン氏と

〝ちびまる子ちゃん〟のあだ名で親しまれた桑山さん

陽気なフィジー人クルーと

最高のホスピタリティーを求めて

一歩を踏み出したエキスパート

 世界を舞台にして、懸命に生きてきた。アメリカでのワーキングホリデーに始まり、イギリスとフィジーでは航空会社の乗務員として働き、シンガポールではホテルと航空会社に勤務して、人材会社にも籍を置いた。ベトナムと香港ではホテルに勤めてきた。桑山裕子……最高のホスピタリティーが要求される航空会社とホテル業界で〝心からのサービス〟を追い求めてきた。
 「これまでの経験を生かして、ジュニアスタッフを育てて行きたい」。今年6月、大連の医療サポート会社からシャングリ・ラホテル大連に転職したばかりの桑山。初の中国本土で腕を振るう出番が回ってきた。

住職兼英語教師の父と積極的な母

 蟹の脚のように太平洋に突き出た愛知県の渥美半島。この付け根の部分にある旧田原町が桑山の生まれ故郷だ。江戸後期の優れた政治家であり、文人でもあった田原藩家老・渡辺崋山の生誕地、さらにはトヨタの城下町のひとつとしても知られている。
 桑山は弟、妹の3人兄妹の長女として生まれた。実家は11代続く曹洞宗「慶雲寺」。第10代住職の父、輝彦は駒沢大学英文科、仏教科の両方を卒業。豊橋の私立高男子部で英語教師を務めると同時に、週末や休日は袈裟に着替えて葬儀や法事に走り回っていた。母、啓子は幼稚園から大学まで、名古屋の名門椙山女学園で学んだ。当時の女性としては珍しく、大型自動車運転免許を取得し、マイ・シューズを抱えてアイススケートリンクに通う、活発な性格である。英語と積極性。輝彦と啓子は、桑山の人生に大きな影響を与えたのである。
 引っ込み思案だった桑山の性格が変わったのは、田原中部小学校4年の時だった。5歳の時から習っていた桑山のピアノ演奏に目を付けた担任が、朝礼や集会の時に校歌の伴奏をさせたのである。同じころ、合唱部に入りNHK合唱コンクールの地域予選にも出場、表舞台の華やかさを知った。中学校も地元の田原中学校に進み、ピアノの練習を続ける一方で、小学5年生から始めていた軟式テニス部にも入部。何事も一生懸命に取り組む、積極的で明るい性格が形成され始めていた。
 高校受験は初めて経験した人生の選択だった。音楽科でピアノを極めるか、普通科で大学受験を目指すか。輝彦が教鞭をとる高校にもピアノ科があったが、「ピアノ漬けの日々はつまらない」と地元の愛知県立成章高校に入学した。演劇部と剣道部に所属したが、次第に部活動に打ち込む余裕がなくなってきた。特に英語の授業に手こずるようになり、豊橋の川澄塾に入塾。原書を使っての速読授業が新鮮で、豊橋の名門校から通って来る生徒にも刺激を受けた。

憧れのクリスチャンから仏教系大学に

 お寺に生まれて育った桑山。地味な仏教からクリスチャンに憧れ、大学はチャペルのあるお洒落な学校を中心に志望したが全滅。受かったのは、何の因縁か、横浜市の鶴見大学英米文学科だった。故石原裕次郎の永眠の地としても知られる曹洞宗大本山総持寺の境内にある学校だ。最初の1年は大学の女子寮に入ったが、先輩2人を含む4人の共同部屋。畳に座机、朝晩の厳しい点呼、電話は各階に備え付けた公衆電話のみと、仏教系の大学らしいスタートだった。
 しかし、当時は女子大生がもてはやされ、桑山は派手な先輩らの影響を受けた。見本市のコンパニオンや流行の服飾メーカーのモデルをしたり、海外旅行などの賞品目当てに人気テレビ番組に出演したりしたこともあった。そんな中、憧れの先輩が全日空の客室乗務員に合格、桑山に目標達成までの道のりを話してくれた。世界中どこにでも行けるし、英語も使える仕事。「私もなりたい」と強く思った。だが、具体的な行動を起こせないまま、卒業後は両親に望まれて故郷へUターンした。
 都会から戻った桑山にとって、田原の生活はこの上もなく平坦なものだった。「このままではいけない」と1年間アルバイトをして学費を貯め、名古屋に開校したキャビンアテンダント専門アカデミーの1期生として入学。立ち居振る舞い、体力づくり、一般常識などの授業を受け、徹底的に鍛え上げられた。
 が、桑山には足りないものがあった。身長である。160センチに満たず、国内の航空会社では書類選考の段階ではねられてしまう。残された門戸は内面を重視する外資系しかない。そのためには英語力をさらに高める必要があった。一念発起してシドニーで1年間のワーキングホリデー生活を送ることになった。午前中は語学学校、午後は大手免税品店でのアルバイト。英語漬けの生活が功を奏し、映画館で欧米人と同じタイミングで笑えるようになるまで、そう長くはかからなかった。
 帰国後、早速、外資系3社に応募。身長対策として、紙粘土で作った頭皮カツラを黒く染めて頭に乗せ、それを髪の毛で覆い隠し多数のピンで止めた。さらに足の裏には消しゴムを貼って包帯を巻き、身長測定に備えた。頭だけが異常に大きくなり、妹は涙をこぼして爆笑したが、この時の桑山は夢の実現に向かって必死だった。しかし、この作戦による受験はすべて不合格に終わる。容姿の不自然さが自信のなさに直結してしまったのだ。
 失意のある日、英字新聞でイギリスのヴァージン航空の乗務員募集を知った。書類選考を通ると、東京で筆記試験とグループ面接に参加することになった。小細工することに疲れていた桑山は、「ダメでもともと。自然体でぶつかろう」と、自分のありのままを出すことにした。

夢が実現したヴァージン航空の採用決定

 筆記試験は思いのほか難しかった。ライバルたちの鉛筆の音だけが響き、最悪の出来映えだった。万事休すの思いで退室直前、採点欄にイギリス国歌の歌詞を英文で書き、「低得点のお詫びです」と書き添えた。だが、驚いたことに後日、「最終面接に来てください」との連絡が入った。面接担当者はこう言った。「なぜここにいるか分かりますか」。筆記試験は108点満点中の65点。どう考えても不合格のレベルだ。評価された点は2つあった。イギリス国歌を書いたことと、グループ面接と同時に行われたユニフォームチェック時の態度だった。着替え室にいた女性は、実は審査官で受験者の会話や態度を密かに採点していたのである。 桑山はこの女性と親しく会話して好印象を与えていた。翌日、ヴァージン航空から採用の電話が入った。ピンチはチャンス、夢が実現した瞬間だった。
 6週間にわたる研修は想像以上に厳しく、同期30人のうち3人が挫折した。「人生で最も頑張った時期」と述懐する桑山は、晴れて研修を終えヴァージングループ会長のリチャード・ブランソンから胸にウィングバッジをつけてもらった。主にロンドン-成田便に乗務し、乗務員としての自信も身に付いてきたが、3年契約が切れ、仕切り直しを余儀なくされた。
 帰国して豊橋の英語塾で英語を教えながら次のチャンスを待っていた時、フィジー国営のエアパシフィックの乗務員募集を知った。経験と英語力で採用となり、フィジー―関空便の乗務員となった。家庭的な雰囲気の航空会社で、同僚の冠婚葬祭に呼ばれ、桑山の手作りの菓子をパイロットや同僚に振る舞うこともあった。だが3年後には路線廃止となり、後ろ髪を引かれる思いで退社した。
 再び帰国して、今度はキャビンアテンダント専門アカデミーの講師となって立場を変えた。そんなとき、「シンガポールのホテルで働いてみないか」と声がかかった。行動力では人後に落ちない桑山は、早速、シンガポールに渡ってそのホテルを訪ねたが、安ホテルで気に入らない。諦めて買物に行こうと、コンシェルジュで道を聞きながら話し込んでいるうち、「あのホテルに行ってごらん。募集しているらしいよ」。紹介されたのが老舗の5つ星ホテル、マンダリン・オーチャードだった。その日のうちに総支配人らと面接し、「一週間後に来なさい」と入社が即決した。
 マンダリンでは経済界や政治家など数多くのVIPを担当し、ASEAN会議に出席した高村正彦外相の全日程を個人バトラーとしてアテンドしたのも桑山だった。その1年後にはヘッドハンティングでシンガポールの日本航空に転職、初めて地上勤務となった。カウンター業務から出発・到着ゲートの担当まで多岐にわたる過酷な仕事だったが、やりがいも大きい。地上職のスタッフの支えがあって、乗務員の業務が成り立つことを改めて認識した。3年後にはシンガポールの大手人材派遣会社、さらにはベトナム・ハノイの最高級ホテル ソフィテルメトロポール、香港の繁華街に位置するカオルーンホテル、カンボジア・シェムリアップのアンコールパレスリゾート&スパに勤務し、揺るぎないサービス業の真髄を会得して行った。

後輩たちに心からのサービスを伝えたい

 そんな時、母の啓子が倒れた。桑山は荷物をカンボジアに置いたまま帰国、啓子の看病に当たった。1年前のことである。啓子の病状も落ち着き、「海外で働きたい」との思いが募ってきた。しかし、高齢の両親のことを思えば、条件はサービス業、飛行機で2、3時間の距離がベスト。ネットで調べて該当したのが、中部国際空港から毎日直行便が飛んでいる大連の医療サポート会社だった。
 桑山はこの医療サポート会社の法人営業担当として今年3月12日に着任した。桑山は啓子の介護と乗務員時代に培った医療の知識と経験、そして天性のサービス精神も備えている。ぴったりの職業だが、わずか2か月後に転機が訪れた。「間もなく転勤する日本人営業の後任に」。シャングリ・ラホテル大連からの誘いだった。桑山にとって、これまでの経験と知識が生かせる絶好のステージである。しかし、医療サポート会社に入ったばかりで心が揺らいだ。桑山はオーナーに正直な気持ちを伝え、その気持ちが伝わってオーナーは快諾、晴れて円満退社となった。
 シャングリ・ラホテル大連には7月1日から、シニアセールスマネージャーとして勤務している。総支配人の期待は大きい。営業のチームリーダ―であり、日本人客の専用フロアの指導役、さらにはフロント業務へのかかわりも求められている。桑山に与えられた特命である。「ジュニアスタッフにこれまでの経験で得た具体例を挙げて、〝心からのサービス〟とは何かを伝えたい。シャングリ・ラを通して大連、中国を深く知りたい」。桑山は天職に身を置くことの充足感の中で、新たな一歩を踏み出した。

この投稿は 2013年7月11日 木曜日 2:58 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2013-07-11
更新日: 2013-08-20
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