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第19話 関根 孝浩 物語

日本人の情熱で支える大連ゴルフ界

関根 孝浩さん

会社を設立して新たな人生ドラマ

 ジュニア時代から華やかな道を歩んで来たプロゴルファー関根孝浩。しかし、その反面には非情な世界が待ち受けていることも関根は痛いほど知っている。それは決して数字がすべての勝負だけではない。時として人間関係が冷酷な状況を生み出すこともある。
 「帰国して新たな人生を歩もうか」と思い悩んでいたのはつい数か月前だった。こじれた契約問題、そして決裂。数字の世界は単純明快だが、人間関係は修復の効かない確執を生む。だが、それを救うのも人間関係だった。
 「もう一度、この大連で日本のゴルフ界の力を見せようじゃないか」。友人のひと言が、関根の帰国を思いとどまらせた。今年4月にはゴルフのレッスンや各種企画、会員権販売を業務とする大連美力高尓夫管理有限公司を設立、総経理としてプロゴルファーと経営者の二足のわらじを履く。大連の人生ドラマはいま、場面を変えて幕が上がったばかりだ。

愛情も資金も惜しみなく注いだ父

 茨城県の太平洋岸に位置する大洗町。海産物だけでなく、農産物にも恵まれた温和なこの町が関根の生まれ故郷である。家業は水産加工業で「彦十」の屋号は地元や業界でも名が通っていた。関根はこの「彦十」を経営する父芳雄と母照子の次男として、1962年(昭和37)6月に生まれた。
 イワシを干して袋詰めしたり、タコを茹でて箱詰めにしたり、作業場はいつも活気に包まれていた。関根と1歳年上の兄将之は小学生のころから手伝いをさせられ、今となっては懐かしい思い出になっている。
 父は曲がったことの嫌いな一本気の性格だった。「嘘を言ったらただでは置かない」「間違いは2度まで許す。3度目は許さん」。普段は温厚だったが、ここ一番の時はものすごい気迫で迫って来た。関根はそんな父が嫌いではなかった。ゴルフへの道を切り開き、関根に惜しみない愛情を注いでくれたのも父だった。小学5年になろうとしていた春休みに、「ゴルフに行くからついて来い」と初めて誘われた。両親もゴルフをやり、兄も習い始めていた。関根もいつかは自分も、と思っていたのである。
 行き先は自宅から車で5分の大洗ゴルフ倶楽部。自生する松林を生かした名門コースで、日差しを遮るほど巨木となって迫る松林、駐車場の高級外車、豪華な洋館のクラブハウス、初めてのゴルフ倶楽部は何もかもが別世界で新鮮に映った。〝仕事場〟との初対面は関根少年にとって衝撃的だった。
 数日後、父はこう言った。「これから大洗ゴルフ倶楽部へ行って来い。プロが待っているのでレッスンを受けろ」。それから1年半、毎週土曜日の個人レッスンが続いた。また、小学5年の冬休みには杉本英世プロの7泊9日ハワイゴルフ合宿に参加。父は関根に愛情とともに資金も惜しみなく投じたのだった。
 このハワイ合宿で関根のゴルフが変わった。合宿の期間中、一緒にラウンドした1歳年下の少年がドローボール系の球筋で、スライスだった関根を常にオーバー。そのフォームは左腰が左足外側まで平行移動するバンプである。関根は密かにマネをするようになり、帰国2日後のラウンドで成果が現れた。1番ホールでいきなりフックボール。今までになかった球筋で、一緒に回った父も関根の進歩に目を見張った。

日大ゴルフ部で鍛えられた技術と精神

 関根は小学6年の夏、80台でラウンドするようになっていた。小学校から中学校へ進んでからもゴルフ中心の生活が続いた。夕方から父と2人で9ホールをラウンドし、食事が終わってからは午後9時まで練習場で打ち込んだ。休みの日は1日500〜600球を打ち、パターやアプローチの練習も3時間費やした。関根と父芳雄———同じ目標に向かって歩む〝親子鷹〟だった。しかし、関根が中学3年の夏、不幸が襲った。父は肝臓がんで兄の誕生日の9月22日に緊急入院、関根の誕生日の10月27日に帰らぬ人となった。関根は大きな支えを失った。全身の血が逆流したかのようなショックに陥り、気力を失った。ゴルフにも打ち込めない日々が続いた。
 高校は千葉県立の水産高校へ入学。普通高校も考えたが、「男子校でうっぷんを晴らしたい」と自暴自棄になっていた。高校1年の夏にアメリカで開かれた世界ジュニア選手権の日本代表に選ばれたが、皮肉にもこの大舞台がゴルフから関根を遠ざけてしまった。同じ世代の欧米人の体格とパワーに圧倒され、プレーもひるんで予選落ち。「とても太刀打ちできない」とゴルフそのものに夢を描くことができなくなってしまった。
 しばらくは練習もせず、大会にも出場しなくなった。そんな失意の関根に日本大学ゴルフ部監督の竹田昭夫から「日大へ来ないか」と声がかかった。ジュニア時代から関根を知っていた竹田は「将来は伸びるだろう」と目をかけていたのである。こうして関根は1981年(昭和56)4月、日本大学経済学部に入学、強豪のゴルフ部に入部した。
 日大ゴルフ部はまるで軍隊のような男の世界だった。1年生は上下関係やしきたりを徹底的に叩き込まれた。神様のような存在の4年生の〝おつき〟となり、マッサージから洗濯、買い物とすべてをやらされた。ライターは必携だった。先輩がたばこをくわえると、火をつけたライターが5、6個も集まった 。
 夏の合宿では4年生と自分のゴルフバック2つを担いでラウンド。移動するときはダッシュで、自分でプレーしながら先輩のキャディー役を務めた。もっとも、4年生で副キャプテンとなった関根も神様の居心地の良さに身を置いたものだった。こうした厳しさが伝統を築き、日大ゴルフ部は圧倒的な強さを誇った。関根が4年生のときも春秋の学生リーグ、全国大会も制覇。「常勝校のプレッシャーは相当。秋のリーグ戦に勝って肩の荷が下りた思いだった」と関根は振り返った。

ジャンボ軍団の合宿参加でプロを決意

 進路に迷っていた4年生の冬に転機が訪れた。プロになった2年先輩の金子柱憲から尾崎将司の「ジャンボ軍団の合宿に参加してプロの道へ」と勧められ、尾崎の自宅での50日間の練習に参加。トレーニングには尾崎3兄弟のほか15人ほどで行い、夜は後援者を含めて総勢40人の大宴会が毎晩続いた。練習は厳しいが、自由で楽しそうなプロ生活。関根はプロになることを決意した。
 卒業後は千葉スプリングスカントリークラブに所属してプロテストに挑戦。2年目の1989年(平成元)の春、念願を果たして合格した。日本全国から約2000人が出場し、合格したのはわずか9人。合格ラインは4日間トータルで10オーバーまでだったが、関根は初日と最終日の大風を制して5オーバーでホールアウトした。「プロテストは重苦しい独特の雰囲気。合格後は世界がモノクロからカラーに変わったようで、景色が生き生きとして見えた。合格した9人で飲んだ酒の美味しかったこと」。
 プロになってからも、しばらくはゴルフ場に所属しながら年間15試合に出場。しかし、賞金で生活できるのはプロ約3000人のうち上位50人ほど。関根もトーナメントに出ながらレッスンやキャディー教育で生活費を稼いでいた。12年間のツアープロ生活に終止符を打ったのは36歳の時。予選会で2日目まで2アンダーにいて3位につけていたが、最終の3日目で前夜の寝違えと大雨で82と大たたきして予選落ち。「俺には運がなくなった。トーナメントから足を洗おう」。あっさりしたものだった。
 千葉県内のゴルフ練習場でレッスンに専念し、一時は週150人の生徒を教えて生活も安定していた。そんな暮しが5年経った時だった。ジュニア時代からのライバルでもあり、気心の知れた大連長興島ゴルフ倶楽部総経理の加藤邦彦から声がかかった。「大連に造っているゴルフ場が間もなくオープンする。総支配人として来てくれないか」。
 誘いを受けて2004年(平成16)3月、加藤が待つ大連へやって来た。開場前のコースを見て奮い立った。地形とコースが見事にマッチして、日本にはない本格的なリンクスコースができると確信した。地元の作業員とともに、芝の張り替えやバンカーの礫もスコップで入れた。ここに素晴らしいコースを造るんだ、という使命感にも似たものを感じていた。この年の9月に正式オープンとなり、関根と加藤の夢が実を結んだのである。
 翌年の2005年(平成17)3月、長興島ゴルフ倶楽部を離れて大連市内で中国のジュニア育成を手がけることになった。関根の実績を高く評価した中国人と手を組んだのだった。その年の8月にはゴルフを始めたばかりのジュニア7人を連れて黄山で開かれた国内ジュニア大会に出場。南方のチームは強豪ぞろいで、ゴルフ後進地域の大連は歯が立つ訳もなかった。他チームの子どもたちも、欧米人のコーチたちも明らかに大連を見下していた。
 このままでは子どもたちが可哀想だ、と思った関根は他チームの前でボールを打ってみせた。その後、欧米人コーチは関根の前でボールが打てなくなった。大連の子どもたちが肩身の狭い思いから開放された瞬間だった。

心を激しく揺さぶった友人の言葉

 翌年の秋にはジュニア東北地区大会で2位に入り、全国大会でも上位に入る選手が出始めた。大連市ゴルフ協会はそんな関根を公式技術総監督に委任し、2009年の国体では関根が遼寧省の総監督を務め、全国5位に導いた。順調に見えた大連での暮しだったが、今年初めには中国人パートナーとのトラブルが発生してしまった。
 契約上の履行、不履行の問題だが、法律上の専門用語だけに通訳がネックとなり、訴訟になっても不利な状況に追い込まれかねない。失意さえ感じ、帰国しようかと思っていた。ストップをかけたのが加藤邦彦だった。その加藤の言葉は関根の心を激しく揺さぶった。
 「(関根)プロさぁ、俺たち38年間ゴルフをやって来て、大連ゴルフ界の先駆者として普及して来たじゃない。その先駆者が負けて日本に帰る? 俺は納得できない。日本人の素晴らしいゴルフを広めていこうよ。もう1回、2人でやろうよ」
  もう関根に迷いはない。新たな夢を抱いて新会社の大連美力高尓夫管理有限公司を立ち上げたのも早かった。教え子たちも育って来たし、普及させて来たゴルフも愛好者が激増して来た。この会社をベースにしてまだまだできることがありそうだ。
 「東北地方ではゴルフ界はまだまだ発展途上。冬場は戸外でプレーや練習はできないが、室内でできることはある。それだけに市場は大きく広がっている。将来はゴルフ学校を設立して選手育成やゴルフ場管理の人材を育ててみたい」 
 前半のアウトコースが終わった関根の〝大連ラウンド〟。いまインコースの10番ティグランドに立ったばかりだ。前方には広々としたフェアウエイが広がっている。関根はゆっくりとテークバックを始めた。

この投稿は 2011年6月1日 水曜日 7:22 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック2件

  1. 中込 達也 より:

    関根孝浩 様

    中込 達也

    ご無沙汰してます

    先日 携帯電話をスマホに変えて 
    今 偶然サイトを発見しました

    先般は
    私のカンボジア国際支援活動にご支援ご協力いただきまして有難うございました

    今後も 陰ながら
    関根プロを 応援しております

    ・・・私も頑張ります

    • 慶次郎 より:

      中込 達也さま、
       コメント有り難うございます。公開が遅くなり申し訳ございませんでした。関根プロへ伝えさせていただきます。

       今後とも大連ローカルをよろしくお願いします。

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掲載日: 2011-06-01
更新日: 2015-08-27
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