Whenever誌面コンテンツ

第34話 岩元 賢二郎 物語

NPO活動で訪れたバンクーバーで

店内でスタッフとともに

大連の海で店の〝上海〟

可能性求めて挑み続ける人生

新たなビジネスに抱く野望

  若い時からとにかく前を向いて突き進んできた。時には脱線しかけながらも自分の道を模索し続けてきた。岩元賢二郎は自らの経験を人生の肥やしにしてきたのである。
  子どものころはサッカー選手に夢を抱いてボールを追いかけ、生徒会長としてリーダーシップを発揮したこともあった。だが、悪友の中にいて無茶なことも散々やってきた。社会人になってからも可能性を求めて幾つもの壁や山を乗り越えて来た。
  国鉄マンを振り出しにして旅行会社、生命保険会社へと仕事を変え、その後は独立して旅行業やコンサルタント業を手がけ、NPOを立ち上げたこともあった。そしていま、大連の経典生活で日本料理店「桂馬」を経営する。1年余りで繁盛店へと導いてきたが、岩元は新たなビジネスにも野望を抱き、次の壁に挑もうとしている。

サッカーで注目された少年時代

  翌年の東京オリンピック開幕に向けて市中に開発のツチ音が響き渡り、舟木一夫の「高校三年生」が爆発的なヒット曲となった1963年(昭和38)。世の中全体が高揚し、日本は高度経済成長期の戸口にいた。岩元はこの年の4月、東京都練馬区に生まれた。5人兄姉の末っ子。長女とは14歳離れ、家族の中で可愛がられて育って来た。
  父、一作は山手線の駅長や国鉄職員寮の寮長も勤めた根っからの国鉄マン。大酒飲みで岩元はよくぶっ飛ばされた。テストの点数が悪いと怒鳴られ、とりわけしつけには厳しかった。食事はもちろん正座、手が少しでも汚れていればゴツンとやられた。岩元は近所の子どもと石神井公園でザリガニ釣りをしたり、缶蹴りやメンコ、ビー玉で遊んだりするやんちゃ坊主だった。母、サツエは一作に逆らわず、一歩引いて一家を支えた。典型的な「内助の功」の妻だった。
  小学校に上がって間もなく、一家は隣の保谷市(現在の西東京市)に引っ越し、4年までは市立碧山小学校、5、6年は市立保谷東小学校に通った。岩元は放課後になると友達と暗くなるまで野球で遊んだ。足が速かった岩元は小学5年の時、教師に誘われてサッカークラブに転向。顧問監督はサッカー界でも知られたスポーツ用品店経営の高田静夫。高田に鍛えられたチームは読売新聞主催の大会でも上位を果たした。中でもMFの岩元は身長167センチの有望選手であり、「将来はサッカー選手に」と夢を抱いていた。
  中学校は地元の青嵐中学校に進み、サッカー部に入部した。ここでも岩元は実力を発揮し、東京都の新人戦では準優勝に導いた。中学生チームでありながら、クラブ対抗戦でも高校生チーム相手に堂々の戦いぶりを見せつけた。エースの岩元はサッカー強豪校の帝京高校からも注目され、中学2年の夏には帝京の特待生候補を集めた合宿にも声をかけられ参加した。特待生は200人中2人の狭き門で入学、授業料は免除されるが、けがをしてプレーができなくなったら退学。天国と地獄が待っていた。岩元は帝京高校への進学を諦め、東京都立清瀬東高校に入学したのである。

準公務員試験に合格して親子2代の国鉄マン

  中学時代はサッカーだけでなく、生徒会長も務めた。毎週月曜日の朝礼では全校生徒を前に連絡事項を伝え、文化祭や体育祭では先頭に立った。勉強も英語はトップクラスで仲間たちの信望は厚かった。しかし、岩元は文武両道の〝良い生徒〟ではなかった。3年生の夏休みごろから不良と言われる悪友と遊ぶようになり、けんかも絶えなかった。
  高校では「もっとけんかが強くなりたい」と柔道部に入部したほどだった。一方では「このままではいけない」という自分がいた。高校1年の夏休みにアメリカへの〝逃避〟を決意。「日本にいたら悪友ととんでもないことになってしまう」との予感があったからだ 。父から大学入学用に貯めていたお金をもらい、カリフォルニア州ソノマの牧場で40日間のホームステイをした。この経験が岩元を変えた。
  英語は得意だったので日常会話に困ることはなかった。朝は室内の掃除から朝食の手伝い、昼食のサンドイッチも作って牧場へ出かける。岩元の仕事は馬の世話だった。ブラシをかけてエサのワラを与え、鞍をつけて馬にまたがって教会にも出かけた。ホストファミリーの温かさも知った。家族と一緒にディズニーランドにも出かけ、結婚式にも出席した。家族愛に富んだアメリカが大好きになった。「性格が少し優しくなり、落ち着いて来た」と述懐する。
  しかし、2学期が始まってからも悪友たちとの付き合いは続いた。学校は退学寸前だった。「お前は中学校でサッカーやっていたんだろう。オレとサッカーやっていれば退学はないぞ」。こう誘って来たのがサッカー部監督の山口隆文だった。山口は後に高校サッカーのテレビ解説者やFC東京ユースの監督も務めた超一流の指導者。チームはメキメキと実力をつけ、2年の夏には東京都大会ベスト16にも入った。岩元は監督推薦で西東京代表の候補選手30人に入り、夏休みには合宿場所の福生へと通った。行き帰りは無免許運転のバイクだったが、これが見つかって候補選手から外され、岩元のサッカーにかけた夢も万事休すとなった。
  高校3年の夏から猛勉強をはじめ、準公務員試験を受験することにした。目指すは父と同じ国鉄だった。旅行が好きだったので、国鉄に入れば各地に行けるし、当時は新幹線も職員ならばフリーパスで利用できるところが魅力的だった。岩元は難関の3次試験まで合格して国鉄入りを果たした。民鉄「JR」として再出発する7年前の1981年(昭和56)4月のことである。何も知らなかった父は目をまん丸にして驚いた。「そうか!」。国鉄を退職していたが、その表情は喜びにあふれていた。

転職した旅行会社の営業でトップクラス

  1年目は各部署で業務研修し、2年目に巣鴨駅に配属され、3年目に田端の操作場勤務となった。この3年間で国鉄内の通信教育で英語や公文書、庶務、駅務など9個の資格を取得した。このころ、国鉄は民営化に向かって希望退職者を募っていた。岩元はまだ3年の経験しかなかったが、「英語圏に行ってみたい」との思いが強くなり、日本旅行の途中採用試験を受けて合格。新宿団体旅行支店に配属され、会社を飛び込みで回って団体ツアーをとってくる営業を担当した。岩元は1年目で50件の契約を取って新人賞を獲得し、日本旅行に在籍した13年半は常に50位以内の営業成績を上げ、最高は3位に入ったこともあった。日本旅行は全国で4600人の営業を擁していた。
  好成績の裏側では目に見えない努力をしていた。客への見積もりの提出は早くても翌日だが、岩元はわずか数時間後に作成して客へ渡した。早朝出勤も日課だった。午前9時から朝礼だが、その前から出社して金融関係の会社回りをする。裏門のドアから入り、出社して来た顧客に営業をする。午前9時以降だと相手が忙しくなり、面会できないからだ。また、夜の営業も毎晩だった。会社から支給された営業経費は年間200万円に達していた。
  しかし、湾岸戦争やバブル崩壊のボディーブローが効いて、羽振りの良かった旅行業にもかげりが出はじめてきた。そんなころ、ある大手生命保険会社のヘッドハンティングにあい、「自分の旅行会社を立ち上げるためにも勉強してみるか」と転職。岩元が36歳の時だった。3年間勤め、この間に生命保険資格の最上級と言われるトータルライフコンサルタント(TLC)の資格を取得し、将来への財産をまたひとつ身につけたのである。
  39歳になった2002年(平成14)に親戚の男性と2人で旅行とIT業務の会社を立ち上げ、本社を埼玉県所沢市に構えた。旅行業務は岩元が担当してバルト三国へ日本人観光客を送り込んだ。競合会社がなかっただけに当たった。1年目で6000万円を売上げ、3年目には2億円に達した。人気テレビ番組「旅サラダ」などの取材コーディネイトの需要も多かった。しかし、IT部門は全く振るわず、売上げはゼロに近かった。

発信基地としてオープンした「桂馬」

  パートナーとの仲違いで4年後に会社を辞め、1人でコンサル兼旅行業の新会社を立ち上げた。日本の学校に中国人留学生を斡旋し、日中の姉妹校提携をプロデュースしたこともあった。その年か翌年には大連とのつながりもできた。星海広場で開かれた国際ビール祭りの開幕式イベントに日本人タレントを出演させ、大連市政府関係者ともパイプができた。広州や香港、台湾でもビジネスをしてきた岩元。その度にトラブルが起きて、中国ビジネスに悩んでいた。だが、大連は違っていた。「大連人の気質は柔らかく、日本人にとって住みやすく、ビズネスもできそうだ」。
  一方で知人らとNPO法人を設立、理事長代理として日中両国の学生交流などの事業も手がけた。運営は順調だったが、岩元が大連に来ている間にNPO幹部が経営していた学習塾が倒産、NPO法人の事務所はもぬけの殻となり、閉鎖を余儀なくされた。何も知らなかった岩元の信用は丸つぶれである。2010年(平成22)9月のことだった。
  その後は大手出版会社のコンサルタントを1年間勤め、昨年5月に日本料理店「桂馬」をオープンさせた。畑違いの分野だったが、人生計画の路線変更ではなかった。「コンサルタント業をやって行くには、発信基地が必要だった。飲食店にはいろいろなお客さんが来て、ビジネスにもかかわる話題も出てくる。人脈が広がり、ビジネスチャンスもあるはず」。岩元の〝読み〟に間違いはなかった。
  最近では店の経営に手応えを感じ始めている。描いていた数字に近いところまで来た。常連客も増えて客から中国進出の相談を受け、サポートの依頼も多くなってきた。いま、抱えているコンサルタント業務は5、6件。中には中国と南アジアを絡めたビッグプロジェクトも含まれている。このまま大連を拠点とするか、それとも南方へ軸足を移すか、中国から離れて英語圏に飛ぶか−―岩元は悩ましい選択の中に身を置く。
  「不安がないと言えばウソになる。だが、ビジネスチャンスを求めて挑戦してみたい」。節目の50歳を間近にして、岩元は培ってきた経験と能力を武器に、チャレンジ精神を燃やし続ける。

この投稿は 2012年12月21日 金曜日 6:40 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

コメントをどうぞ

掲載日: 2012-12-21
更新日: 2012-12-21
クチコミ数: 0
カテゴリ
エリア