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第30話 田中 潔 物語
日中を結ぶ3世代の夢と使命
両国に〝役立つ人間〟を目指し
父は日本人、母は中国人。中国に生まれ育ち、青春期を日本で過ごした田中潔。二つの祖国の狭間で悩み、苦しんだこともあった。「日本人でもなければ、中国人でもない。私の国はどこなのか」。若いころに自問自答を繰り返した〝自己の存在〟。しかし、やがては「これで良かった」と思えるようになり、「日中関係で私に何ができるのだろうか」と前向きに考えられるようにもなった。
祖父母、両親、そして田中――数々の悲劇や苦しみを伴った戦前から戦中、戦後の中国と日本を生き抜いてきた3世代。そこには両国に対する共通の思いがある。「互いの国の役に立つ人間に」。これが日中ビジネスを展開する田中の心の支えにもなっている。
■信州から大陸へと夢を描いた祖父母
田中の祖父準平は終戦直前に他界し、田中がその温もりにふれたことはない。だが、日本と中国をまたぐ3世代の原点でもある祖父母。田中は幼いころから〝自己の存在〟の原点とも言える祖父母の人生の軌跡を両親から聞いて育ったのである。
準平の出身地は長野県飯田下伊那地方。1932年(昭和7)に日本政府による旧満州(現在の中国東北地方)移民事業が始まり、日本全国から32万人が旧満州へ渡ったと言われる。そのうち長野県が最も多い約3万8000人を数え、その四分の一が飯田下伊那地方だった。祖父母もまた、開拓団の一員として大陸に夢を描いて渡ってきた。
祖父母が入植したのは黒竜江省の方正付近。方正は終戦の混乱期に開拓団の避難民が集まってきた場所で、ここで命果てた日本人は数千人とも言われている。当時の日本政府の移民政策は中国に対して様々な抑圧と犠牲を強いたが、多くの日本人も悲劇のどん底へと突き落とされたのだった。田中の父、実たちも命絶えるか、残留孤児になるか、運命の瀬戸際にあった。
準平は菓子職人として働いていたが、終戦の直前で病死してしまった。子どもは男女4人だったが、長男の叔父秀雄は15歳で関東軍に入隊したため、祖母コトが地元の食堂に勤めながら、次男の実と妹の叔母2人の一家4人の生活を支えた。終戦前後は「ロシア軍が攻めてくる」「日本人は銃殺される」といった情報やデマが流れ、庶民の開拓団は逃げ場を求めて逃避行を続けた。父一家も例外ではなかった。方正からハルビン、再び方正へと戻り、行き場を失った。一家4人が路頭に迷っている時、偶然の出会いがあった。それは、準平が、母乳の出が悪かった中国人女性に砂糖分けてやったその人だった。
「安全な私の村に来なさい」。4人は離散することもなく、中国で生き延びたのである。コトは地元の家政婦として働き、13歳の実も木材を切り出して馬車で運び出す仕事に精を出した。それから18年後の1963年(昭和38)、コトはひとり帰国し、群馬県前橋市で暮らしていた秀雄一家と一緒に暮らしたのである。
中国に残った実は、運搬業で妹2人の面倒を見て、終戦から15年後に丹東出身の張秀玲と見合いして結婚。方正から西へ約160キロ離れた佳木斯に引っ越し、長屋に新居を構えた。やがて姉蘭子が生まれ、文化大革命が始まろうとしていた1964年(昭和39)に長男の田中が誕生した。その後、弟の剛と隆が生まれ、一家6人の平和な暮しが続いた。しかし、実は村に溶け込むためだったのか、日本語を話すことはなかった。
■悩む息子に生きる姿勢で無言のメッセージ
田中は周囲の子どもたちと同じ環境で、「張宝才」として育てられた。だが、徐々に「みんなと違う」と自覚するようになった。小学生のころ、喧嘩すると「小日本!」となじられ、殴り合いになったこともあった。しかし、懐かしい思い出もたくさんある。夏には松花江で泳ぎ、中学生のころには友人たちと立入り禁止の防空壕を探検して、先生にこっぴどくしかられたこともあった。まだ〝自己の存在〟への疑念はおぼろげだった。
そんな田中の一家に転機が訪れた。日中国交正常化から6年後の1978年(昭和53)、佳木斯に日本の訪問団が来訪。その時、実は入院していたが、知人の付き添いが突然、交代させられ、「監視されている。中国で長く暮らすことはできない」と感じたのだった。当時、中国当局は外国との接触に神経を尖らせていたのである。実は日本に帰ることを決意し、2年後の1980年(昭和55)6月、一家6人は祖母が暮らす前橋市へと転居してきた。
日本語をまったく話すことができなかった田中は、中国で高校を卒業したものの、前橋では中学1年生からはじめることになった。しかし、学校では4歳下の同級生ともめ事が絶えなかった。日本語のできない田中をクラスメイトが無視し、投げかけられる言葉と言えば「中国人!中国へ帰れ」。佳木斯でも浴びせられた罵倒だった。〝自己の存在〟への疑念が確かな形となって沸き上がってきた。「私の祖国はどこなのか」「私はいったいなんなんだ」。深い悩みは20歳まで続いた。
実は、もがき苦しむ田中を知っていたのだろう。無言ながらも毅然とした生き方を自らの姿勢で示した。ダイハツの工場に勤めた実を、中国からの帰国者はあざ笑った。「働けば国からの援助金がもらえなくなる。苦労して働かなくても良いのに」。実は群馬県中国残留孤児帰国者協会の初代会長にも就任して同胞に支援の手を差し伸べた。「人の役に立ち、真面目に頑張る人間になって欲しい」。いま田中は、父からの無言のメッセージだと理解している。
■大学時代の友人に恵まれ悩みも氷解
田中もそんな実の姿を目にしながら将来の自分を考えた。中学卒業ではまともに就職できない、と思って高校に進学。勉強にも積極的に取り組んだ。成績も次第に良くなり、大学進学への欲も出てきた。「中国と日本にかかわり合いながら視野を広げたい」と、苦手だった日本語も克服して拓殖大学中国語学科に入学、通訳になりたいとの希望も見えてきた。
大学では中国研究会に所属して中国事情を研究し、亜細亜大学や桜美林大学の中研とも交流した。田中はこの時のメンバーに恵まれた。「日本はこうだ、中国はこうだ、とやる前から決めつけるな」「田中こそ、日中の架け橋になれるではないか」。先輩や同級生の言葉に、重く沈んだ〝自己の存在〟の疑念が徐々に氷解していったのだった。
通訳の夢は「自分の意思で決められる職業に」と変わり、大学卒業後は和光証券に入社。国際部に配属され、いずれは中国国内に開設する事務所に転属される見通しだった。しかし、1989年(平成元)の天安門事件の影響で事務所開設は見送られてしまった。そんな時、大学の先輩から、「大連の水産会社に来ないか。一緒にやろう」と声がかかった。1991年(平成3)、田中は和光証券を辞して大連へとやってきた。
ところが2年後には経営が悪化して社員は退職、田中も独立して大連でアサリの輸出ビジネスを立ち上げた。当時、大連から日本に送られるアサリは品質が悪く、回収の歩留まりも極端に低かった。田中は品質管理を徹底的に行い、粗悪品が故意に船積みされないようにチェックもした。さらに作業の合理化も進め、日本側の信頼を得て業績を上げて行った。私生活でもうれしいことがあった。佳木斯で経理の仕事をしていた曲城と知人の紹介で知り合って結婚。1996年(平成8)、田中が32歳、曲が26歳の時だった。
2000年(平成12)に田中と曲は大連から前橋に移転し、事業拠点も前橋に移した。この年、長男智浩が生まれ、田中は日本と大連を行き来しながらアサリビジネスを続けながら、前橋に中華料理店をオープン。忙しい日々だが、仕事も私生活も充実していた。そのころ、「大連の事務所に問題がある。助けて欲しい」と知人の水産会社経営者から依頼を受けて、田中は曲と智浩を前橋に残し、2005年(平成17)に再び大連へ戻ってきたのである。
■ビジネスと介護の分野で日中の架け橋
助っ人生活は2年間で終わったが、2008年(平成20)の餃子事件をきっかけに、事業を大きく拓く出会いがあった。大連日清製油総経理の糸数博である。当時、日本への食品輸出入は審査、検査が厳しく、困難を極めていた。日中両国の事情に精通した田中の出番である。真摯に取り組む田中の姿勢が糸数の心にとまった。糸数の信頼を得た田中は大連和昇企業服務有限公司を立ち上げ、食用オイルの販売と広告を任されることになった。
当時、日清オイルが販売されていたのは大手スーパーだけで、日清ブランドはほとんど知られていない。田中は徹底的に市場調査をして「街のどこにでもある便民店に置けば必ず売れる」と確信し、市内の小さな便民店を1店1店回って営業した。田中の読みはズバリと当たった。販売店の取扱店は2010年のゼロからわずか2年足らずで1238店舗に拡大、日清ブランドは急速に浸透してきた。
日清オイルの販売とともに、田中にはもうひとつの大きな目的がある。中国進出を目指す日本企業のサポートだ。これまで中国ビジネスで挫折した日本人を数多く見てきた。中国の習慣や文化、考え方を知らずに事業展開して、資金を持ち逃げされたり、感情的な問題からストに発展したり、失敗のケースは枚挙にいとまがない。田中はそんな日本企業を助けたいと思う。
「両国が幸せになることが何よりの願い。日本と中国の両方から物事を見られるのは、私の生い立ちがあればこそ。ビジネスを通して役に立てるのではないか。大連での私の存在意味が鮮明になってきた」
私生活でも充実した日々を送る。昨年8月に智浩を大連に呼び、今年3月には曲が大連に来て、一家3人の水入らずの生活が再開したのである。日本語のできなかった曲は猛勉強して、昨年、難関と言われる介護マネージャーの資格を取得した。やがて高齢化社会を迎える中国で、日本の介護ノウハウを伝えたいからだった。
ビジネスと介護の分野で、日本と中国を結びつける架け橋になりたいと夢を描く田中と曲。「人のために」と激動期を息抜き、昨年他界した実が望んだことでもある。バトンは実から田中と曲に引き継がれた。
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更新日: 2012-08-23
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